第2話

 ◇


「あの、奈津希さん。本当に泳ぐの……?」


 小学校のプールは、夏休みの間開放されて自由に使えるようになっている。だけどそんなことは、泳ぐのが苦手な僕にとって無縁の話だと思っていたのに。

 八月のある日、奈津希さんが突然家にやって来て、僕は無理やり学校のプールへと連れ出されていた。

 プールには、同じ小学校の生徒たちと数人の大人たちがいる。クラスメイトの姿がないことには安心したけど、やっぱり泳ぐことは気が進まない。


「今さらなに怖気付いてんの。夏はプールの季節なんだよ」


 奈津希さんはプールの前に仁王立ちになって、力強く言い切った。


「去年は『夏は山の季節なんだよ』って言ってたよね? 結局どっちなのさ」

「どっちも! 夏は全部やらなきゃ」


 言いながら、奈津希さんはプールのふちに足をかける。僕は一歩引いた場所から、その背中と奥のプールをじっと見つめた。

 真上から降り注ぐ太陽の光は、奈津希さんの真っ黒のショートヘアーとプールの水面をキラキラと輝かせている。水着に隠されていない箇所の肌は、健康的な小麦色をしていた。

 泳げないのを見られるのは恥ずかしいし、消毒のシャワーは冷たいし、裸足でプールサイドを歩くと火傷しそうだし。だいたい、水中で目を開けることだって苦手なのに……。

 プールを目の前にしても、そんな気持ちばっかり浮かんでくる。

 だけど、奈津希さんはそんな僕の手を不意に引いて、


「落ちろー!」


 と、道連れにするみたいにプールに飛び込んだ。

 とっさに目をつぶる。全身を衝撃が襲った後、水の感触が包み込む。慌てて水面から顔を出して、大きく息を吸った。目元の水を腕で拭うと、目の前に奈津希さんの顔があった。

 あははは、と、大きな口を開けて笑っていた。


「ちょっと、鼻から水入ったんだけど……」


 僕は口の中に広がる気持ち悪い感覚に耐えながら文句を言う。けど、奈津希さんは「えー」と気にしていなさそうだ。


「いつまでも入ろうとしない青木くんがいけないんだよ」

「そんなこと言ったって……」

「ほら、ここまで来たんだから泳がなきゃ!」


 そう言って、奈津希さんはすいすいと泳ぎ始める。


「ちょっと待ってよ!」


 結局、僕はまた後を追いかけてしまう。文句を言いたくなることも多いけど、それでも僕はこの季節が好きなんだと思う。


 やっぱり夏は特別だ。


 夏休みはあるし、カブトムシは成虫になるし、たくさんアイスは食べられるし、太陽は眩しいし。そしてなにより、奈津希さんがいる。

 夏の間の奈津希さんはちょっと不思議だ。普段は同じ教室にいても特に意識することもないのに、水の中ではしゃいでいる今の奈津希さんはとても眩しかった。

 プールの真ん中までたどり着くと、奈津希さんは泳ぐのをやめてこっちへ振り向いた。泳げない僕は、ぱしゃぱしゃと手で水を掻きながら歩いて、やっとそこまで追いついた。


「あんまりはしゃいだら、監視の人に怒られちゃうよ」


 奈津希さんは、濡れた髪の毛をかき分けた。隠れていた顔があらわになって、すぐ至近距離で視線が合わさる。奈津希さんは、にいっ、と口角を上げた。僕はドキッとして、たまらずに目を逸らしてしまう。

 一歩、奈津希さんはさらに距離を詰めてきた。そして、僕の耳の近くで囁くようにこう言った。


「ねえ、青木くんだけ特別に、私の秘密を教えてあげる」


 水を被って冷えたはずの僕の頭は、一瞬にしてのぼせ上がった。


「秘密……?」

「うん。実は私ね――」


 ◇


 奈津希さんに会うのは高校2年生の8月以来、実に8年ぶりのことらしい。

 最後に会ったのはちょっとした中学の同窓会の時のことで、奈津希さんとどんな話をしたのか、そもそもまともに会話をしたのかも覚えていない。いくら幼少の頃からの付き合いとはいえ、さすがに少し緊張をしていた。

 そもそも、仕事以外で同年代の女子と会うこと自体、何年ぶりだって話なのに。

 奈津希さんと待ち合わせたのは吉祥寺駅。この場所を選んだのは、毎日職場と自宅の往復しかしていない僕にとって、精いっぱいの背伸びだった。

 北口を出てすぐの広場を待ち合わせ場所にしたけど、外を選んだのは間違いだったかもしれない。集合時間は十五時で、容赦のない日差しが真上から降り注いでいる。ずっとクーラーの効いたオフィスでパソコンをいじっているだけの人間には、少しきつい環境だ。


(時間と場所だけ決めて約束したけど、ちゃんと顔を見て気づけるかな)


 なにせ記憶にあるのは八年前の姿だけだ。今は社会人になって、見た目も雰囲気も変わっているに決まっている。

 記憶の中の奈津希さんは、日に焼けた健康的な肌と肩に届かない程度の短い髪、そして、夏の太陽のようなカラッとした笑顔。

 夏休みが近づいてくると、僕の席までふらっと現れて必ずこう言うんだ――。


「青木くん、だよね?」

「うわっ!」


 突然の隣からの声に思わず跳ね上がる。

 振り向くと、そこに立っていたのは一人の女性だった。薄いベージュのブラウスと紺のロングスカート。髪は明るい茶色で肩先まで伸びてる。


「奈津希、さん……?」

「うん、久しぶり」


 記憶の中とまるで印象が違う。肌の色だけはわずかに面影を残しているけど、表情の雰囲気までが違っている。

 長いまつ毛にぱっちりとした瞳と血色の良い唇、金色の輪っかのイヤリング。呆然としてしまったのは驚きが半分で、もう半分の理由は、ただ見惚れてしまっていた。


「本当に奈津希さん?」


 思わずもう一度確認してしまうと、奈津希さんはニヤリといたずらな笑みを浮かべた。


「夏だねぇ、青木くん」


 その瞬間、目の前の女性と記憶の中の奈津希さんがつながった。

 そうだ。暑いから夏なんじゃなくて、紫外線が肌を焼くから夏なんじゃなくて、奈津希さんがいるから夏なんだ……。

 見ているだけで暑苦しい眩しい日差しも、奈津希さんが浴びれば、キラキラと綺麗な絵になっていた。

 見た目の雰囲気が変わって不安になったけど、やっぱり奈津希さんは奈津希さんだ。


「で、急に連絡なんてしてどうしたの?」

「どうっていうか、なんとなく、最近どうしてるのかなって気になったから」


 奈津希さんはすっかり大人の女性になったと言うのに、僕は変わらずヘタレのままだ。顔を合わせれば自然と昔みたいに話せるだろうと思っていたけど、緊張してしまってうまく言葉が出てこない。

 僕たち、昔はどんなふうに話をしていたっけ。


「と、とりあえずどこかお店でも入ろうか。……暑いし」

「うん、そうだね」


 僕の提案に奈津希さんはうなずくと、カバンから白の日傘を取り出した。頭の上でぱさりと広がって、奈津希さんの顔に影が生まれる。日傘なんて女の人なら当たり前のことなのに、昔のイメージとの違いのせいか、やけに落ち着かない気持ちになった。

 お店に入ろう、なんて提案したのは僕だけど、どこか当てがあったわけでもない。駅の周辺をふらふらと歩いた後、奈津希さんが知っているという喫茶店に行くことになった。

 そこは純喫茶風の見た目で、若い女性客の多いおしゃれなお店だった。エアコンも効いているし、雰囲気の演出のためか店内は薄暗い。さっきまで歩いていた真夏の街から、まるで別の世界に迷い込んだみたいだ。

 僕たちは、店内の奥のテーブル席に向かい合って座った。


「改めて、本当に久しぶりだね。実際、急にどうしたわけ?」

「別に本当になにもないんだけど。なんとなく、今何してるのかなって」

「本当にそれだけなんだ。……けど、面白い話なんてできないよ? 私、今はただのOLだし」

「OL……」


 思わずおうむ返しにつぶやいた。

 あの奈津希さんがただのOL。


「意外? これでも私、結構バリバリやってるんだけど」

「いや、意外っていうか……」


 意外っていうか、そんなのは奈津希さんらしくない。

 さすがに、その言葉は呑み込んだ。昔だったら、それくらいのことはずけずけと言えていたのかもしれないけど。


「それより、青木くんは何の仕事してるの?」

「一応、SE的なことを……」

「えー、すごいじゃん!」


 なにがすごいのか分からないけど。僕は適当な謙遜で誤魔化した。

 それから話題は、完全にお互いの仕事のことが中心になった。奈津希さんがどんな仕事をしていて、今はちょうど夏季休暇なんだとか、僕の社畜生活をネタにして笑ったり、そんな酒の肴くらいにしかならない、つまらない話題が続いた。

 結局、この歳の人間同士が集まったら、仕事の話ばっかりだ。人によっては、恋愛がどうとかも加わるんだろうけど。当たり障りのない、パターン化された話題ばっかりだ。

 たぶん、幻想を抱いていたんだ。

 奈津希さんならきっとあの頃から何も変わっていなくて、今でも顔を合わせれば、またあの頃に戻れるって。水飛沫を上げてはしゃいだ、あの夏の空気をもう一度……。

 カラン、と、奈津希さんのアイスティーの氷を混ぜる音がやけに響いた。


「ねえ、つまんないでしょ」

「え……?」

「私と話してもつまんないよね」


 失敗した。

 勝手に変な期待をして、思ったのと違うだなんて失望して。自分から呼びだしておいて、最低だ。

 謝ろうとして口を開きかけた時、奈津希さんは寂しげに目を流しながらつぶやいた。


「私も、つまんない」

「それって……」

「ちょっと期待してたんだ。青木くんと会ったら、また昔みたいな楽しい夏になるのかなって。……だけど、なにも変わらなくて、勝手に失望してた」


 奈津希さんは、お店の中をつまらなさそうに眺めている。

 アンティークな装飾は洒落ていて、メニューも凝った名前の写真映えするものばかり。普通なら、良いお店知ってるんだね、なんて話題にできるんだと思う。だけど、奈津希さんにこんな場所は似合わないと思ってしまう。


「僕だってそうだよ。奈津希さんとまた会うまで、勝手な期待をしてた。今日のことだって、夏休みが退屈だったから声をかけたんだ」


 やけに周りの女性客の声が大きく聞こえてくる。たぶん、僕たちの間に沈黙が目立つようになったせいだ。

 奈津希さんはため息と共に吐き出した。


「ねえ、変わっちゃったのは私? 青木くん? それとも、全部時代のせいなのかな」


 その問いに、僕はなにも答えられない。たぶん、その全部なんだろうけど、それを口にしたところで、どうせなにも変わらないから。


「ねえ、青木くん。もう一度、私たちの夏を取り戻してみない?」


 奈津希さんの提案は抽象的で意味はよく分らなかった。

 だけど、僕たちは今同じ気持ちだと思ったから、うなずくことに迷いはなかった。


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