きみは夏の蜃気楼
天野琴羽
第1話
夏という季節を感じるたび、僕は彼女のことを思い出す。
海、スイカ、花火、夏祭り……。「夏」というワードから連想するものは人によってさまざまだと思うけど、僕にとってのそれが彼女で、彼女はもはや夏そのものだった。
その彼女の名前は奈津希さん。苗字は忘れた。
奈津希さんとは、いわゆる幼馴染というやつだったんだと思う。小学校の気づいた時から隣にいて、中学でも何度か同じクラスになっていた。
そんな幼馴染の奈津希さんだけど、特別仲が良かったわけじゃない。同じクラスの時もそれなりの距離感があったし、性別も違うから、話をする機会も多くはなかった。
ただ、それも夏の時期以外での話だ。
七月も後半に入って、いよいよみんな夏休みに浮足立ち始める頃、彼女は僕の席までやってきて、決まってこう言うのだ。
――夏だねぇ、青木くん。
そうして夏の間、僕は奈津希さんに振り回されるのが常だった。子供の頃の夏の記憶を掘り起こすと、必ずと言っていいほど奈津希さんが僕の隣を駆けている。
日に焼けた健康的な肌と跳ねるショートカット、そして、少しの曇りもない満面の笑顔。今でも、鮮明に思い出せる。
ただ、そんな記憶が続いているのは高校一年か二年の頃までだ。奈津希さんとは高校も違ったし、それなりに真面目な僕は、大学受験が近づいてくるにつれて遊ばなくなっていった。
たぶん僕は、奈津希さんのことが好きだったんだと思う。
どうして急に彼女の話をしているのかと言うと、窓の外から吹き込む風に、ふと夏を感じたからだ。
数年前、僕がまだ社会人三年目かそこらの頃、奈津希さんと久しぶりの再会を果たし、一緒に夏の日々を過ごしたことがった。それは、夏休みと呼ぶには寂しいけれど、社会人にとってはオアシスのような一週間のお盆休みの出来事。
結局、社会人になってから奈津希さんと会ったのはあの年の一度きりだ。
まるで夏の蜃気楼のようなあの日々を、僕は思い出していた。
☆
一瞬、意識が飛んでいた気がした。
目の前のPCモニターに表示されている画面は、さっきまでとなにも変わらない。ただ、右下の角に小さく表示されている時計だけが先に進んでいる。
居眠りでもしてたかな。
エアコンの設定は26℃。まさか室内で熱中症になったわけじゃないだろうし。
「……暇だな」
思わず、誰もいない部屋にこぼした。
八月も中盤に入り、世間はいよいよお盆休みへと突入した。それは僕にとっても例外じゃなくて、今日はその連休の二日目。公休と有給を合わせた七連休だ。
二年前にシステムエンジニアとして今の会社に入社し、いくつもの炎上案件の中を渡り歩いた僕が、初めて手にした長期休暇だった。
弊社の名誉のために説明をしておくと、去年も一昨年も休暇自体はちゃんと存在していた。ただ、一年目は新人研修の課題に追われ、二年目は新しく配属になった現場のキャッチアップのため、仕様書とにらめっこをする毎日だった。
だから、何かに追われていない長期休暇は今回が初めてだった。
七日間も休みがあれば、きっとなんだってできる。そう思って迎えた初日の昨日は、溜まった睡眠の負債の返済に当てられて、二日目の今日はなんのやる気も出ない。あんなに欲しかったはずの休暇が、早くも退屈で埋め尽くされ始めていた。
大学の入学と同時に上京をして一人暮らしだし(といっても、実家は埼玉だけど)、友達も社畜になってめっきり減った。時間ばかりあっても、やれることといえば、寝るか勉強するかの二択くらいだ。
(どこか出かけるって言ってもなぁ……)
窓から外を眺めてみると、それだけで体感温度がぐっと上がるような気がしてくる。朝から日光を浴びたアスファルトは目玉焼きでも作れそうな雰囲気で、ゆらゆらと蜃気楼でゆらめく景色は、まるでどこか別の世界みたいだ。
(甲子園でも見るか)
夏の醍醐味は、クーラーの効いた部屋でアイスを食べながら見る甲子園だ。冷凍庫から楽しみにしていたスイカバーを持ってきて、テレビの電源をつける。
エースの佐藤君、延長に入っても球威は落ちない。中一日で、魂の180球!
チャンネルをNHKにした瞬間、聞こえてきたのは実況のそんな声だ。解説のおじさんは、『ここまで来たら気持ちですよ、気持ち』なんて興奮気味に語っている。
(こういうのも、昔は素直に感動できたんだけどなぁ……)
両校の点数だけ確認をしてから、テレビのリモコンの電源ボタンを押す。途端、部屋には再び静寂が訪れる。聞こえるのは、咀嚼のたびに口の中でシャリシャリと鳴るスイカバーの音くらいだ。
シャリシャリ、シャリシャリ。最後に、スイカの「皮」の部分も食べ終わる。久しぶりのスイカバーは、期待していたよりも美味しくなかった。
「……夏って、こんなつまんなかったっけ」
夏がただの季節になってしまったのはいつからだろう。ただ暑くて蝉の声がうるさいだけの日々の繰り返し。
昔は、もっと特別だったはずなのに。
――夏だねぇ、青木くん。
不意に声がよみがえった。いつも僕を夏へと連れて行ってくれた幼馴染の声。
「奈津希さん……」
その名前をつぶやいた瞬間、懐かしい気持ちに襲われた。
あの人は今、何をしているんだろう。大学の頃までは少し連絡を取り合ったこともあった気がするけど。
トークアプリを開いて、その名前を探してさかのぼる。奈津希さんと最後に連絡を取ったのは、大学四年の七月だった。
奈津希:夏だねぇ、青木くん。
それに対する僕の返事はなかった。
あれ、返事してなかった? そもそも、こんなメッセージを受信した記憶もなかった。未読にはなっていなかったけど、忙しい時に開いて、それきり忘れてしまったとか。
奈津希さんのトーク画面を開いたまま、僕は固まってしまった。
このメッセージの下に続けるのか? そもそも、何年連絡も取ってないと思ってるんだ。この歳になっていきなり連絡するなんて、間違いなく警戒されるだろ。
自分の性格くらい、自分でよく分かってる。遠慮しいで、意気地なし。だから、こんな寂しい夏を過ごすことになってるわけで。普通に考えれば、自分から女子に連絡なんてできるわけがない。
けど、どうしてかあの人のことを思い出すと、胸が強く締め付けられる。
この感情がただの懐かしさか、それとももっと別の何かなのかは分からないけど、僕にとって奈津希さんが特別だということは間違いなかった。
青木:久しぶり
今も東京いるの?
送った、送ってしまった。
我ながらあまりいい文章とは思えないけど、それでも送ったからには後に引けない。
それからの僕はずっとそわそわして、なにをしても手につかない。奈津希さんからの返事が届いたのは、メッセージを送ってから1時間ほど経ってのことだった。
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