第九夜 血の刻印
強引に引っ張り出したスチール棚の中には重量級の本がぎっしり詰まっていた。本の重みで棚が歪み、非力な司書は開けることができなかったのだ。それでそのまま放置されたのだろう。
「あったわ」
豪華な装丁の記念誌やアルバムに混じって、見覚えのある革製の本が出てきた。友紀が手にした本は、まさにあの時神社で陽介が持っていた死者の書いた本だ。
友紀は月明かりの差し込む窓際に移動し、本を開いてみる。
青白い光に照らされたページに書かれているのは意味不明な文字らしきものの羅列だ。
「何て書いてあるんだ、俺は学がねぇからわからねぇや」
康司はすぐに匙を投げた。
「こんな文字見たことないわ」
真由実も薄汚れたページに並ぶ不気味な文字を見て顔を顰める。
「これは死者の書いた本よ、私たちに読めるはずない」
友紀はページをめくっていく。
しかし、小学生の陽介にもわかるように書かれているはずだ。陽介は七不思議の順序を的確に言い当てたのだから。
「これ見て」
本の最後は絵が描かれていた。見覚えのある場所だ。図書館、放送室、女子トイレ、体育館、音楽室、美術室。
「この並び、あの時と逆ね」
「どういうことだ」
真由実と康司は顔を見合わせる。
「死者の書いたものよ、内容が変わってもおかしくないわ。つまり、この本も実体のない幽霊ということじゃない」
友紀はゆるい笑みを浮かべる。当時、あれほど怖がりだった彼女だが、この状況を楽しんでいるように思えた。
「放送室から周りましょう」
友紀は本を脇に抱えて図書館を出ていく。気後れしていた康司と真由実も慌ててついていく。
放送室も機材は全て片付けられていた。これではあの時と同じ状況を再現するのは不可能だ。
「七不思議って、何か共通してない」
がらんとした部屋を見つめて友紀が呟く。
「死んだ教師に生徒、トイレは怪奇現象だし、バラバラだわ」
「共通点なんてあるのか?待てよ、血だ」
康司の言葉に友紀は頷く。
「そう、見た目はバラバラな現象だけど、全て血なの。もしかしたらその場所に血があることで結界が開くんじゃないかしら」
つまり、重要なのは怪現象でないという。ならばピアノや放送機材、絵画が無くとも良いということになる。
「血があれば良いのよね」
友紀がバッグから果物ナイフを取り出した。
「友紀、何してるの」
真由実が止める間もなく、友紀は自分の腕を切り付けた。
「大丈夫か」
「このくらいでは死なないわ」
康司に心配されて友紀は嬉しそうに顔を上げる。何もない床にぽつぽつと友紀の白い腕から血が滴り落ちる。
その場に三人、無言で佇んでいたが、何も起きる様子はない。
「何も起きない」
「あなた、無駄に怪我をしただけよ。やめましょこんなの」
真由実は友紀を咎める。
「もっと血が必要なのかも」
「ダメよ、もう行こう」
呆然とする友紀の手を引いて真由実は放送室を出る。康司が後ろ手にドアを閉めた瞬間、スピーカーからノイズが聞こえ始めた。
ガガッ、ザザザ…
康司が放送室を覗き込むが、何もない。スピーカーからは雑音混じりに軽快な音楽が流れ出す。真由実は背中に氷が落とされたような寒気を覚える。
「血の効果かもね、次は四階の女子トイレよ」
友紀はハンカチで傷口を押さえながら歩き出す。白いワンピースの裾には赤い血の花が散っていた。
「それでは作文コーナーです」
ノイズ混じりの小学生の声がスピーカーから響く。
「ぼくの仕事はたてものをこわすことです。おおきなたてものもどんどんこわします」
解体作業のことか、康司は神妙な表情で耳を傾ける。舌垂らずの男子児童の放送は続く。
「この間、こわい人たちに誘われて夜中に新しいマンションの工事現場に行きました。そこでコンクリートを流し込む仕事をしました」
康司は動揺して廊下の柱に設置されたスピーカーを見上げる。
「黒い袋が三つありました。その上にコンクリートを流しました。固まるまで見張りをするように言われました。一日で五万円もらえました。うれしかったです。みついこうじ」
真由実と友紀が立ち止まり、怪訝な顔で康司を見つめる。
「いや、俺は職場の先輩に誘われただけだ。それが何かなんて知らなかったんだ」
康司は額から流れる脂汗を拭う。なぜこの放送はこの間の出来事を知っているのか。
「わたしは健康に良い食べ物を売っています。シワがなくなるとか、膝が良くなるとか、お年寄りにとてもよころばれています」
今度はハキハキした女子児童の声だ。
「でも、実はそんなものに健康効果はありません。ないぞうに悪い食べ物もあります。それでもわたしは食べ物を売ります」
真由実の足はガタガタ震えている。
「たくさん売れると会社からごほうびがもらえるからです。この間も病気のお年寄りにたくさん買ってもらいました。楽しかったです。もりおまゆみ」
康司は真由実の顔を見やる。真由実はふいと顔を背けた。
「売れたらインセンティブがつくのよ。嘘も方便じゃない。それに喜んで利用する客も多いのよ。騙すばかりじゃないわ」
真由実の言葉はまるで自分にいい聞かせるようでもあった。
階段を登る間も放送は続く。
「わたしの宝物は白い壺です。仲良しグループの偉いリーダーがこれを買うと良いよと教えてくれました。とても高かったので、いろんな所からお金を借りて買いました」
陰気な少女の声だ。友紀は立ち止まって俯いている。
「壺を眺めていると心が安らかになります。
グループの仲間はみんな仲良しで、わたしに優しくしてくれます。リーダーはお金を払えばもっと良い壺をくれると言います。そのためにはお友達を連れてこないといけません」
「友紀、あんたやばい信仰宗教にハマってんの」
真由実が友紀の肩を掴む。
「うるさい、グループの仲間は私のことを理解してくれるのよ」
友紀は真由実の手を振り払い、階段を駆け上がる。
「お友だちがいれば怖いものはありません。だから、お友だちがたくさん欲しいです。あらいゆき」
スピーカーのノイズは強くなり、やがて音声は途切れた。
「やっぱり俺たち、あの日から人生詰んじまってたんだな」
呆然とする真由実の横を肩を落とした康司が通り過ぎていく。
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