第十夜 異界への扉
四階女子トイレの封鎖テープをひっぺがし、中へ足を踏み入れる。一番奥の個室は扉が壊れてぶら下がっていた。
康司が扉を取り外し、個室の中を覗き込む。和式便器の中には黒い汚れがこびりついているだけでハンドルを踏んでも水も流れない。
「待て、次は俺がやるよ」
康司はナイフで腕に別の傷をつけようとする友紀の手を制した。ナイフを手にして友紀のしたように腕を割く。焼けるような痛みに顔をしかめる。
康司は便器の中に腕から滴り落ちる血を落とす。これで良いのかわからない、誰も正解を知らないのだ。
ゴボッと配管の詰まりが取れる音がして便器の穴からみるみる血が溢れ出した。
「嫌だ、気持ち悪い」
血はどんどん溢れ出し、便器の外まで流れ出す。真由実は悲鳴を上げて飛び退いた。
「次は体育館だ」
康司の言葉に友紀は頷く。
「早く終わらせましょう、私明日仕事なのよね」
真由実も七不思議を見届けることが義務かのように足早に廊下を進む。
体育館に侵入するのは難渋した。体育倉庫の窓は大人の体には小さすぎる。メインの出入り口は鉄の扉で固く施錠されていた。
康司が分厚い正面玄関のガラスを叩き割り、腕を突っ込んで鍵を開けた。
「馬鹿らしいけど、今度は私がやる」
二人は流血を厭わなかった。真由実の負けず嫌い根性が顔を出したようだ。
体育館の壁際にあるバスケットゴール下で血を滴らせた。
「ああ痛いわ、こんなこともう嫌」
真由実は涙目で唇を噛む。
「大丈夫?」
「あんたは慣れてるかもしれないけど、私は痛いのは嫌いなのよ」
心配する友紀に真由実は苛立ちをぶつける。友紀はリストカット痕を慌てて隠した。二人の間に険悪な雰囲気が流れる。
「やめろよお前ら」
康司が呆れて仲裁に入る。
ガガッと音がして体育倉庫の扉が開いた。その音に驚いて振り返ると、倉庫の暗闇の中で何か揺れている。
よく見るとシューズが片方脱げた子供の足だ。高いところから吊られ、風もないのにぶらぶら揺れている。
「うわああっ」「きゃあああ」
三人は叫び声を上げて体育館を飛び出した。
正面玄関の階段に座り込み、生温い夜風に吹かれていると気分が落ち着いてきた。
「あと残るは音楽室と美術室よ」
真由実は乱れた髪をまとめ直す。スマートフォンを見れば、深夜三時だ。肌は埃と汗でドロドロだ。早く帰ってシャワーを浴びたかった。
「行きましょう、最後の七不思議を解放するんでしょう」
友紀は座り込んだままの康司を焚き付ける。康司は友紀と真由実の顔を交互に見比べた。女というのはこんなに強いものなのか、と肩をすくめる。
「私、母と同じ看護師になりたかったの。でもいざ本気で目指そうとしたとき、血が怖いことに気づいた」
夜の学校での恐怖体験が真由実の心の奥底で拭えないトラウマになっていた。
「夢を諦めるってどんな気持ちかわかる?今の食品販売だって健康に役立てたいって始めたけど、結局詐欺紛い。それでも辞められなくて、惨めよ」
プライドの高い真由実が初めて他人に本音を吐露した。不思議と遠い昔の同級生には話すことができて、なんだかスッキリした気分になれた。
「俺もあの日から陽介を置き去りにした罪悪感に苛まれて生きていた。鏡をまともに見られないんだ」
康司は廊下の窓ガラスに映る自分の顔から目を背ける。
「鏡を見られないって、自己肯定感が無くなるんだよ。自分を否定して生きることを強いられる。何もかもうまくいかなくて、身体をひたすら酷使する仕事を選んだよ」
康司も自分を責めて生きていたのだ。
「私はあの時のことを何度も大人たちに訴えたわ。陽介を助けてもらいたかったのよ。信じてもらえず、頭のおかしい奴だとレッテルを貼られた」
友紀はおかしそうに肩を揺らして笑う。
「今入っているグループ幸福の船ではみんな私の話を聞いてくれたわ。私はあの日以来、初めて人に信頼されたの」
その目はどこか遠くを見つめていた。
「そんなのあんたに金を貢がせたい奴らが迎合してるだけ、騙されてるわ」
真由実は声を荒げる。
「仲間たちは私のことを大切にしてくれるのよ、あんたたちとは違う」
友紀は冷めた視線で康司と真由実を見やる。あの日以来、三人の心は疎遠になってしまった。臆病で繊細な友紀は一番苦しんだのかもしれない。真由実は何も言えず黙り込む。
音楽室の前にやってきた。ピアノのあった場所で康司が腕にナイフで切り傷を入れる。床に血が滴り落ちる。
「何も起きない」
ピアノの音が鳴るでもなく、亡霊が現れるでもない。康司は血が足りないのかとナイフで新しい傷を作ろうとする。それを友紀が止めた。
友紀の視線の先には教卓があった。友紀は本を手に取る。
「楽譜よ。あの時流れていたベートーヴェンの月光」
パラパラとページを捲ると赤黒い染みを見つけた。それはページを捲るごとに面積を増し、最後には楽譜が読めないほどに飛び散っていた。
「ひっ」
友紀は真っ暗なページに驚いて楽譜を投げ捨てる。しかし、喀血しながらも楽譜を捲る教師の執念を感じて、楽譜を拾い上げて元の場所に戻した。
美術室では三人がそれぞれ少しずつ血を提供した。しばらく佇んでいたが、何も起きない。血を流すのは一人ずつでないといけないのか、三人は怪訝な顔を見合わせる。
「あっ」
康司が懐中電灯で黒板を照らす。そこには来た時には無かった絵が一面に描かれていた。チョークで印影をつけて表現されたリアリティのある絵の女性は穏やかな笑みを浮かべている。
「いつの間にこんな絵を」
黒板一枚に綿密なタッチで描かれた絵は狂気を感じた。それにこの絵がいつの間に描かれたのか、そう考えると背筋に冷たいものが落ちた。
「行こう、最後の七不思議へ」
康司は美術室を出ていく。いよいよ血の鏡の前に立てる。興奮して身体が火照るのを感じる。陽介を飲み込んだあの鏡の謎を解くのだ。
「え、嘘でしょ」
「そんな」
旧校舎のあった場所に立ち、康司と真由実は絶句する。目の前にはコンクリート造りの建物が建っている。
「旧校舎が、無くなってる」
卒業して数年後、赤城第二小学校にプールができた、と聞いていた。まさか、旧校舎を潰して建てられていたとは。
康司はがっくりとその場に膝をつく。
「血の鏡はもうどこにもない、クソっクソっ」
康司は地面を叩きつけながら号泣する。
真由実はその姿を見てどこか冷静な気持ちだった。もし、あの時と同じ血の鏡が再現できたとして、一体何ができるのか。あんなものもう見ない方が良い、内心そう思っていた。
「きっとあるわ」
友紀がプールを見上げて思わせぶりな表情で微笑む。康司も立ち上がり、プールを見上げた。
空に流れる雲が月を覆い隠してゆく。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます