第七夜 少年失踪事件

 旧校舎に足を踏み入れる。木造の廊下は一歩進むたびにギシッと家鳴りを起こし、その度に心臓がドクンと震える。

「やっぱりやめようよ」

 友紀が震える声で訴え、真由実の腕を引っ張る。真由実は鬱陶しそうにその腕を振り払った。


「ここまで来たら見届けるの。それに途中でやめたら呪われるって言うじゃない」

 真由実はここまでの鬱憤が爆発したようだ。あからさまに友紀を邪険に扱う。

「ねぇ、陽介くん、やめよ」

 友紀は陽介に縋りつく。陽介は泣いているのか笑っているのかわからない複雑な表情を浮かべた。


「ぼくは行ってみるよ」

 陽介は穏やかに答える。友紀は訴えを聞き入れてもらえず、項垂れる。

「俺もこうなったら最後の七不思議を見届けたい」

 康司も前に進む気だ。

「あんただけ帰れば良いじゃない」

「嫌だぁ」

 真由実が友紀を突き飛ばす。友紀は慌てて真由実の腕を掴む。


「最後の七不思議は旧校舎の踊り場の鏡だ」

 陽介は懐中電灯を握り締める。緊張で手がじっとり汗ばんでいる。

 友紀は嗚咽を噛み殺しながらついてくる。

 目的の踊り場は校舎奥の二階へ続く階段の中程にある。


「階段は全部で12段あるはずなんだけど、数えたら13段になっている。それに気づいたとき、踊り場の鏡が異界は通じる道になるんだ」

 陽介の声が明瞭に響く。恐ろしい噂のはずだが、楽しみで仕方がないという気持ちが滲み出ている。

 いよいよ廊下の端に到達した。階段は曲がり角の先にある。


 全員が息を止めて階段の前に立った。

 二階の窓から射す月明かりが階段を照らしている。それは恐怖を忘れるほどに神秘的な光景にすら思えた。

「いち、に、さん」

 陽介が階段を数え始める。康司と真由実も心の中で数を数えた。友紀は俯いたまま怯えている。


「じゅうに」

 十二段だ。十二段しかない。陽介は最後の七不思議が空振りに終わったことに脱力して天井を見上げた。

「あっ、見て」

 真由実が叫ぶ。指差す先に踊り場の十二段目からじっとりと血が滲み出してきた。血の中から浮かび上がるように階段が迫り上がってくる。

 血がじわじわと流れ出し、階段は真っ赤な絨毯を敷き詰めたように見えた。


 陽介は階段を上がり始める。血で滑る階段に足を取られないように一段ずつ。

 その背中を呆然と見ていた康司は弾かれたように後を追う。

「陽介、何する気だ」

「陽介くん」

 真由実も陽介の意図に気づき、手摺に掴まりながら階段を登っていく。


「嫌だ、置いていかないでよぉ」

 友紀も一人ぼっちで廊下で待つ方が怖くなり、血塗れの階段を登り始めた。


 踊り場に立つと高さ2メートルに届く大きな姿見がある。四人は鏡を見つめて絶句する。鏡の表面が血で覆われ、まるで生き物の背中のように波打っている。あまりのおぞましさに誰も口を開こうとしない。

「この先に知らない世界があるんだ」

 陽介は赤い血の壁をまっすぐ見つめ、熱病に侵されたように呟く。


「ぼくは行ってみようと思う」

 陽介は振り返る。その顔には微かな恐れと、異界への憧れに満ちていた。

「陽介、ダメだ」

「ダメよ、陽介くん」

 康司と真由実は陽介を引き止めようと手を伸ばした。


「あっ」

 陽介は二人の手が触れる寸前、力強く床を蹴り、血の鏡へ飛び込んだ。

 鏡に激突するはずが、血の壁は奥行きのある液体のように陽介の身体をすっぽり飲み込んだ。

「嘘でしょ…」

「陽介くん」

 何もできなかった友紀は嗚咽を漏らし始める。


 あまりの恐怖に誰も血の鏡に近づくことはできない。

「うわっ」

 突如、鏡から血まみれの陽介の手が伸びてきた。何かを掴もうと手のひらを開閉させている。異界はやはり恐ろしい場所で、陽介は助けを求めているのかもしれない。


「うわああああ」

 康司は階段を駆け降り始めた。

「やだ、待ってよ」

 真由実も康司の叫び声に反応して泣き喚きながら階段を飛び降りる。

「二人とも待って」

 友紀も二人について走り出した。

 三人は振り返りもせず、旧校舎を飛び出した。


 必死で走ったため、口の中に鉄錆の味がする。康司は陽介を飲み込んだ血塗れの鏡を思い出し、慌てて頭から振り払う。どう走ったか覚えていない。団地前の公園にたどり着き、ようやく息をした気分になった。

「これは俺たちだけの秘密だ」

 康司は真由実と友紀の顔を見比べる。その剣幕の恐ろしさに友紀は怯え、真由実ですら思わずゴクリと息を呑み込んだ。


 子供たちの浅はかな約束はすぐに破られることになる。


 朝になっても陽介は帰ってこなかった。母親は心配したが、世間体を気にした父が警察への通報を渋った。


 家出をしてみたい年頃で、腹が減ったらすごすご帰ってくるだろうと呑気に構えていた。しかし、翌日の夕方になっても帰ってこない。

 ついに警察に捜索願を出すことになり、団地は事故か誘拐かと大騒ぎになった。


 前日の夜遅くまで一緒にいた康司、真由実、友紀の三人はそれぞれの親から問い詰められ、シラを切り続けることなどできるはずはない。

 辻褄が合わないことを追及され、洗いざらい事情を話すことになる。


 一番怒られたのは夜の学校に勝手に忍び込んだことだ。旧校舎の鏡に陽介が飲み込まれたなど、大人は誰も信じない。

 最も懸命に訴えたのは友紀だった。彼女の鬼気迫る話から旧校舎を探索することになったが、手がかりは全く見つからなかった。


 結局、肝試しだか学校探検だかを終えて帰り道にはぐれ、事件か事故に巻き込まれたたのだということになった。


 夏休みが終わり、新学期が始まると行方不明の四年生児童の噂で持ち切りだった。

 七不思議の呪いに当てられたのだ、変質者に誘拐された、夜道を歩いていて用水路にでも落ちたのだ、様々な憶測が飛び交った。


 面白おかしく演出される噂話に腹を立てた康司は上級生に殴り掛かり、教師が慌てて止めに入ることになった。以来、癇癪もちのレッテルを張られることになる。


 真由実もそれまでの自信に満ちた態度は身を潜め他人に当たり散らすようになり、取り巻きは遠のいていった。友紀はさらに臆病で卑屈になり、誰からも相手にされなくなった。

 あの夜、七不思議の謎解きから戻ってきた三人は嘘つき呼ばわりされ、友達を見捨てたと後ろ指をさされ孤立していく。


 康司、真由実、友紀の人生はあの日を境に大きく変わってしまった。陽介を見捨てたという罪悪感が彼らの小さな心に鉛のように重くのしかかっていた。



 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る