一夏のやご
普遍物人
第1話
まだ湿気があまりない夏の差し掛かり、だったような気がする。私たちの小学校では、プール開きの前に毎年、小学校何年生だかが冬にトンボが産んだ卵から孵ったやごを獲ることになっている。そして彼らを各々が作ったペットボトルの水槽で飼うのが決まりだった。
その時のプールの水と言ったら、いつものような透き通ったものではなく、泥のような何かが浮遊し、お世辞にも綺麗とは言えなかった。
あの頃の私は何が嬉しくて、知らぬ虫のためにあのような汚い水の中を探さねばならなかったのか、さっぱりわからなかった。ただ先生は、あの虫は可愛いというから、きっと育てるのは楽しいのだろうと、それだけ。
虫取り網を持ってそのプールに来てみれば、先生たちが楽しそうにヤゴをプールから掬い上げている。
「ほら。これがやごだよ。」
そう言われて先生の網を見てみれば、沢山の泥のようなものの中にわずかに蠢くやごがいた。細い6本の腕を必死に動かしているその姿は、まるでテレビに見る、生きたまま市場で売られて行くエビのようだと思った。
「もっとよく見てみなよ。可愛いよ。」
それは愛らしい姿でもなければ、勇ましい姿でもない。
白目のない目を持った、不気味で小さなその姿、柔らかく頼りない皮膚を纏った、弱々しく動くその姿。
それらを受け入れるには私は幼すぎた。
兎に角と、そのプールから取った汚い水を自作の水槽にいれその中にそのヤゴたちを入れてやれば、やごたちはお腹をヒクヒクと上下させ気持ちよさそうにゆっくりと動いていているのみ。嫌悪感すらも覚えるその様子を、確か先生の指示で一生懸命見たような、あぁ、そうだったかも。
「餌はなに。」
その異物を自作の粗末な水槽の中に入れて、一応用心しながら、そのヤゴを持って帰った時に言われたのはその言葉だった。母の目は好奇心というよりも懐疑的な何かを持ち合わせているように見える。
「みみず。だって。」
その時の母の言葉の失い様は、今でも忘れることはない。
その後私は父、母、妹、私の4人は車でとにかく餌をたくさん売っている場所に向かった。湿気があり、少し生臭いその場所の雰囲気は、さながら絵本に出てくる魔女の家のようだったのを記憶している。
よく分からないままそこで売っていたメダカを見ていると、名前を呼ばれた。
「帰るよ。」
半透明のビニール袋を持った父が出口から店内に向けて声をかける。そして、ほら、と、その袋を渡して、父と車のある方へ行った。
「うわ。」
途端に声を上げた。そのビニール袋から出てきたのは大量のみずみずしいミミズ。それをすかさず黄色いバケツに入れる父に私は若干の恐怖を感じる。どん、と、鈍い音を立ててバケツの中に入ったミミズは道端で見るよりは明らかに細くて短かった。もしかしたら、ミミズではなかったのかもしれない。
「餌はちゃんとやるんだぞ。」
途端に言われたその言葉に幼い私は絶望した。見ているだけでも気味の悪いこのミミズたちを、自分の手でやらねばならぬと考えるだけで身の毛がよだつ。
やごが何匹いたかは覚えていない。10匹はいたように思う。手狭なペットボトルの中に入れられたやごたちは、それでもヒクヒクとお腹を上下させながら生きていた。日々、よく見てみれば案外個体差があって、最も大きいものと最も小さいものの間には倍ほどの差があった。ミミズをあげればそれを器用に取って、食べていく。日によって食べる速度も食べる量も違う。
「ちゃんと食べて大きくなってね。」
私はその時、この奇妙なものを食べる奇妙な個体がきちんと生きていると、初めて実感したのだ。
ある日、私はその水槽に手を入れた。いまだに汚いままの水槽の中で気持ちよさそうに動いているやごを見て、私は吸い込まれるようにその魅力に触れたいと思ったのだ。
「わぁ。」
ヌメヌメとした感触、心地よいとは言えないが、それは冷たく、まさしく水。ところどころ触れる汚い泥は、感触だけでみればふわふわの綿飴。とん、とん、と、たまに当たってくるやごたちの殻は柔らかく、近所の子犬のふわふわとした毛並みよりも尊いものを感じた。
「ちょっと。」
1番近くにあった一匹を捕まえて潰さぬように指で挟んで押してみれば、内側から、潰さないで、と言わんばかりの力が緩やかな弾力として伝わる。そっと離してやれば、酷い目にあったと言わんばかりの顔をして、一目散に駆けていく。その目はよく見ると潤っている。
「すごい。」
それらが私の育てた結果だと思えば、確かに愛らしく思えたものだ。取り出した手はからは強烈な汚臭がしたが、それすらも気にならない。
また別の日、水槽から何匹か消えた。私は水槽の様子を見る。
「あれ。」
するとそこには、昨日までヒクヒク動いていたであろう腹が、腹だけがそこにあった。ただ、悲鳴をあげるにはあまりにも呆気なかったし、他のやご達が生きているならそれでいいかとか、そんなこと思って、その日もまたいつも通り餌をやった。
「ちゃんと食べてね。」
そのまた別の日、いつも通り餌をやっているとあることに気がついた。
小さな子からいなくなっている。
「まただ。」
このままではみんないつかいなくなってしまうのではないか。そのような不安が込み上げ、とうとう私は再発防止に乗り出すことにしたのだ。
「共食い。」
友達に話したり、先生に話したり、親に話したり、そうした中で得られたのは今までにない新しい感覚だった。
この生きているやごたちがこの水槽の中で、めだかの学校のような環境が築き上げているに違いない。幼く無知な私はそんな戯言を盲信していた。小さな子は守られる存在で、大きな子はその中で先生のような頼れる存在なのだ、きっと亡くなったのは事故だったのだろう、なんて、そんな夢物語を勝手に描いていた。
めだかの学校は存在しない。その一つの言葉だけで、私の水槽を見る目は大幅に変わることとなった。あの心地よい楽園の中で行われる熾烈な争い。生き残るためにしなければならない捕食。それが味方か敵かなんてどうでも良い。生き残れ。今生き残っているそんな彼らの顔は凛々しく輝いているように見えた。
「いつトンボになるのかな。」
減り行くヤゴに見飽きてしまった私は、とうとう成長のその先へと思いを馳せていた。同級生の楽園が墓場となっていくのを横目に、私は黙々とヤゴを育てていく。朝になったらぷかぷか浮いているかもしれないヤゴ達の日々成長を見ながら、期待と不安を胸に抱いていた。もう半数も存在しない楽園で生き残ったのは、やはり大きなやご達。そんな精鋭隊は日に日にますます食べるようになってきたのだった。
「そろそろかな。」
そんな気がしていた。十分大きくなったその図体。そこからトンボになりますと言われても、十分納得できるほど育ててきた。ただ彼らは蝶とは違い蛹にならないので、その前兆がよく分からない。突然空へ行ってしまうと思うと、寝ている場合ではなかった。
「早く寝なさい。」
そんな私に勧告されたのはそんな心苦しい言葉だった。もしかしたら明日にいなくなってしまうヤゴたちを思うと、居ても立っても居られない。そんな宙ぶらりんの状態でも、私は寝なければならなかったのだ。
最後の1匹になった。結局、共食いは最後まで行われた。その頂点に立つのはやはり一番大きなやごだった。あんなにたくさんいたやごたちがこのやごに詰まっていると思うと、何だか不思議な気分であると同時に大きな愛着が私を包み込む。ただ、もう失うことはないと思うと、やはり少しは安堵した。このやごはきっとトンボになるんだ。身震いするほどの高揚感。その姿を一目みたい。
あぁ、そうだった。あの日も私はやごに餌をやろうとした。
「あ、れ。」
楽園には誰もいなかった。私はすかさずその中に手を入れてその子を探す。
「いない。」
その時、初めて私は泣いたのだ。今までの全ての行為が無駄に思えて、なぜいなくなったのか分からなくて、脱皮した様子もないし、他の場所に飛び出ている様子もなくて。ただ忽然と姿を消しただけだった。
「きっとトンボさんになったのよ。」
そう言われても私には納得ができなかった。トンボになった彼の様子を見ていない、トンボになったのか分からない。どこに行ったのか分からない。彼がどんなトンボになったのか、どうはばたいたのか、それとも何かの理由で死んだのか。何も知ることのできない。達成感もない。出来るのはただその空っぽになった楽園を眺めていることだけ。
やご、死んじゃったんだよね。
「まだ育ててたのかよ。俺のところのヤゴ、もう全滅したよ。」
そうなんだ。
「えー、〇〇君、ひーどーい。」
「私も、なんか朝起きたら干からびてた。」
え、そうなの。
「あー、うちも、うちも。」
「水槽、片付けろってうるさくてさ。」
「それ、私も言われたー。そんなに嫌なら自分で片付ければいいのに。」
「臭いし、汚いし、触りたくないなー。」
私は今年も、虫取り網を持つ小学生を見る。
一夏のやご 普遍物人 @huhenmonohito
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