閑話② ♥ 信仰が破綻した日
ベッドに横たわって、目を閉じ、イヤホンから聞こえてくる声に集中する。
宮沢賢治の小説「銀河鉄道の夜」の朗読音声。これはかつて私の推しだったVtuber――宮本ミカンちゃんがリスナーに残してくれた遺産だ。
もう彼女のYouTubeチャンネルが更新されることは無いけれど、この音声は
彼女の朗読は天性のそれだ。
過去に演技の練習をしたことがあるのだろうか――発声も、滑舌も、感情の込め方も、全ての水準が最高で、どうしてこれがたった五百円で聴き放題なのか理解に苦しむ。
そのどこか寂しくて切ない物語にくるまれながら、私はこれまでのVtuberオタク人生を回顧する。
最初はただの作業用BGM代わりだった。
絵を描いている間は耳が暇で、少し寂しくて、人の声を聞いていたくなったのだ。
そして、長時間のライブ配信をしているVtuberたちの界隈へと辿り着いた。
別にそれがバーチャルである必要は無かったのだけれど、なんとなく流行っているし、画面の情報量が少ないから目で見ている必要性が低く感じて、彼女たちを選んだ。
最初はYouTubeのおすすめ欄に載っていた適当なVtuberを流していた。
それから、段々と自分の好みというのがわかってきて、視聴する配信を選ぶようになった。
この人の配信が好き、というのも徐々に増えていく。
YouTubeのチャンネル登録とSNSのフォローもして、本格的に追いかけるようになった。
特に気に入った子は通知もオンにして、毎回の配信を視聴した。
Vtuberは横の繋がりというのがすごく重要な文化だ。
数字を伸ばすためにコラボ配信をするのはごく自然なことで、だからひとりのVtuberを追っていると、ほとんど自動的に他のVtuberも知ることになる。
そしてコラボ相手の子も見るようになると、また別のVtuberがその子の配信に加わってくる。
そんなことを繰り返していると、いつの間にか私がチャンネル登録しているVtuberの数は四桁を超えていた。
宮本ミカンちゃんを知ったのは丁度そのくらいのタイミングだったはずだ。
色んなVtuberを見てきたからこそ、彼女がどれだけの素質を持っていて、どれだけ自分の好みに合っているか、すぐに理解することができた。彼女は私にとって、完璧と言えるような存在だったのだ。
すぐにミカンちゃんのファンアートを描くようになった。
彼女のライブ配信や過去のアーカイブを聴きながらペンを走らせている時間は、私にとってもの凄く特別なもので、専用のファンアートタグを添えてその成果物を投稿する時には毎回心臓がバクバクした。
ミカンちゃんは毎回私の絵をいいねしてくれて、特に気に入ったものは自分のTLにも流してくれた。
そんな反応が返ってくる度に、私はこれ以上無いほど嬉しくなって、更に彼女のことが好きになって、もっと良いイラストを描こうと誓った。
学校であった嫌なことなんて、ミカンちゃんの配信を見ていれば全部忘れることができた。
あの立てこもり事件があってから啓ちゃんが学校に来なくなって、私の友達と呼べる存在はひとりもいなくなってしまったけれど、そんなことはどうだっていいのだ。
だって、いつでも画面の中には彼女がいるのだから。
どれだけ成績が落ちようが、家族と喧嘩しようが、ミカンちゃんさえいてくれれば全部が大丈夫になる。だから、私はこれからも生きていける。
――そんな風に思っていた矢先に、あの忌まわしい騒動が起こった。
私が異変に気が付いたのは、朝起きてXitterのトレンドが目に入ったからだった。つまり、もうある程度話題になってからということだ。
特に活動をしていない日に浮上した〈宮本ミカン〉の五文字。本人が何か発表したわけではないということは、Xitterの投稿通知が来ていないことからすぐにわかった。残された可能性は、第三者によって”何か”が起きたということ。
恐る恐るその文字列をクリックして、私は事態を把握した。
彼女は炎上したのだ。
ゴシップ系のYouTuberによって、”ミカンちゃんの通話音声の切り抜き”らしきものが拡散されていた。
その内容は、ミカンちゃんが自分のファンたちの悪口を言っているというもの。
『Vtuberのオタクって気持ち悪いよね』
そんな台詞から始まる三十秒程度の音声。
私はそれを聴いて、即座に偽物だと判断した。あの誰よりも優しくて、私のことを暗闇の中から救ってくれたミカンちゃんが、こんなことを言うはずがない。きっと声真似か、合成か、何らかのカラクリによって作られた人工的な音声。そうに決まっている。
昼頃になって、ミカンちゃんがその音声に対して声明を出した。
彼女は「出回っている音声は自分の声ではない」と完全に否定。それから、彼女が所属しているVtuberグループの運営からも注意喚起が出た。
Vtuberグループ「ユメパッケージ」は、業界では中堅と言われることが多いポジションだ。最大手の事務所には負けるけれど、それでも根強いファンは多い。ミカンちゃんは、そのユメパッケージ一期生の三人組ユニットのひとりだった。
私はその声明によって胸を撫で下ろした。これで炎上は落ち着くはず。
でも、事態はそう甘くはなかった。
その日を境に、グループ内の人間関係にある変化が生まれた。
ミカンちゃんと一番仲の良かったメンバー――同期の
ミカンちゃんとヒバチちゃんは同じユメパッケージ一期生としてずっと一緒に活動をしてきて、これまでに幾度となくコラボ配信をしてきた。
リスナーの中には二人が本気で女の子同士の恋愛をしているという妄想をして楽しむ層も少なくない数いて、黄色いボブヘアのミカンちゃんと、赤いストレートヘアのヒバチちゃんが並んだファンアートは数え切れないほど見てきた。
そんなふたりの絡みが一切無くなり、ファンたちは混乱した。
あれほど頻繁に行われていたミカンちゃんとヒバチちゃんのコラボ配信が、ぱったりと無くなった。事前に予定されていたものまでキャンセルされて、Xitterですら二人が会話を交わすことは無い。
リスナーたちの間では、不信感が強まっていった。
本当にデマなのだとしたら、どうして?
ヒバチちゃんは何か知っているのでは?
このまま宮本ミカンを応援していいの?
そんな疑念は消えることのないままどんどん渦を巻いていき、ミカンちゃんに対する風当たりが弱まることはなかった。
配信のチャット欄は愉快犯によって度々荒らされるようになって、同時視聴者数が減って、ミカンちゃんの配信活動に対するモチベーションは目に見えて落ちていく。
もう、見ていられなかった。
ミカンちゃんがユメパッケージを卒業すると発表した時は、悲しみと安堵が入り混じった感情に襲われて、私の情緒は滅茶苦茶になってしまった。
彼女は何も悪いことをしていないのに、どうしてこんなに酷い目に合わないといけないのか。
何か私にしてあげられることは無かったのか。
一体、誰を責めればいいのか。
唯一救いがあったとすれば、彼女はもう苦しまなくていい、という事実によるものだった。
Vtuberなんて辞めて、どこか遠い世界で幸せになってほしい。
インターネットは最悪だ。
それでも、彼女は戻ってきた。
安上がりな3Dモデル――きっと自分で制作したのだろう。それは、誰かにキャラクターデザインやイラスト、モデリングを発注したら、自分を取り巻く悪い環境に巻き込んでしまうと考えたからなのだと思う。
誰がガワを作ったかなんて、濃いVtuberオタクの集合知に掛かればすぐに特定されてしまうのだ。
彼女は最初の動画で、「スパナ」をくれると言った。
それは、私が喉から手が出るほど欲しかったものだ。
もしあの時、チャンネルのモデレーター権限さえ持っていれば、荒らし行為をするやつを片っ端からブロックして、快適なチャット欄を作ってあげることができたはず。そうしたら、ミカンちゃんが辞めることもなかったかもしれない。
――いや、本当は自分でもわかっている。
たったひとりモデレーターが増えたくらいでは、ネットの悪意からVtuberを守り切ることなんてできっこない。
でも、何もせずに指を咥えて見ているだけなんて、もう嫌なんだ。
もしも私にあの瞬間をやり直すための権限をくれると言うのなら、私はどんな手段でも使う。
誰に迷惑を掛けてもいい。
クズと呼ばれてもいい。
巻き込んでしまった啓ちゃんには、申し訳ないという気持ちはあるけれど、それでも――。
朗読音声が終わって、「銀河鉄道の夜」の主人公と一緒に現実に帰ってきた。
涙を拭いて、鼻をかんで、そのまま眠ることにする。
昔話おしまい。
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