第1章 メタバースの幽霊

第1話 ♠ 幼馴染と交渉

 コンビニからアパートへ戻ると、俺の部屋の前で面倒事がにゃあにゃあと鳴いていた。

 これまでの経験上、ここで逃げると余計に面倒なことになるので、嫌々ながらも自分から声を掛ける。


「何してんの?」

「にゃ?」

「にゃ? じゃなくて」

けいちゃん、おかえり」


 水色のワンピース姿の女の子――幼馴染の森戸もりとひかりは、しゃがみ込んだ状態のまま首だけ振り向き、にこっと笑った。肩からこぼれた黒髪が地面に付きそうだ。

 彼女の向かい側にはこの辺りに棲み着いているデブな野良猫が転がっていて、俺には目もくれずに前足をちょこちょこと動かしている。周囲の暗さとその身体の柄によって、存在に気が付くまで数瞬掛かった。


「どこ行ってたの? LINEしたんだけど」

「歩いてたからな」


 コンビニのビニール袋を掲げて見せながら、ポケットからスマホを取り出しチェックする。LINEの通知をタップすると、〈どこ?〉のテキストとスタンプが八個、不在着信が四件入っていた。


「こえーよ」

「かわいい幼馴染からLINEが沢山来たら、普通は嬉しいと思うんだけどな」

「てか、そんな急用なのか?」

「うーん、そうかも。とりあえず、中入れて?」


 ひかりはすくっと立ち上がり、デブ猫に「ばいばい」と手を振る。俺はドアの鍵を開けて、彼女を招き入れた。デブ猫も何食わぬ顔で一緒に入ってこようとしたが、必死に阻止する。俺の家は保護施設じゃない。こいつ一匹でキャパオーバーだ。

 ひかりはスムーズな動作で洗面台で手を洗い、俺のベッドに堂々と腰掛けて、「久しぶりに来たけど、相変わらず綺麗な部屋だね」と呟いた。

 俺はデスクチェアに座り、それをくるりと回してひかりと向き合う形にした。


「なんか飲むか?」

「持ってきたやつ飲むよ」


 ひかりはそう言って、鞄から半透明で花柄の付いたタンブラーを取り出した。中身はおそらく紅茶だろう。俺は冷蔵庫へ向かって、飲みかけのコーラのペットボトルを取り出した。


「啓ちゃんの仕事って忙しいの?」

「そうでもない」と答えておく。事実、在宅勤務が多くて結構暇だ。

「そっちは、学校はどうだ?」


 ひかりは「退屈」とだけ答えた。


「というか、授業はちゃんと出てるのか?」

「どうだろうね……あれ、啓ちゃん、ちょっと前髪伸び過ぎじゃない?」

「そんな露骨に誤魔化すなよ」

「いや、これは重要なことだよ。そうだ、私が切ってあげよっか?」

「断る。耳がなくなったら困るからな」

「鼓膜さえ残ってれば聞こえるんじゃない?」

「サングラスが掛けられなくなる」

「いや、持ってないでしょ。きっと似合わないよ」


 彼女はなかなか本題に入らない。おそらく、何か込み入った相談があるのだろう。

 しかし、このまま世間話を続けても仕方がない。俺の方から切り出すことにした。


「で、また何かやらかしたのか?」

「違うの。私が何かやっちゃったわけじゃなくて……あのさ、ちょっとだけオタクな話してもいい?」

「ちょっとなら」

「ごめん、ちょっとじゃ済まないかも」


 俺はひとつため息をついてから、無言で「どうぞ」のジェスチャーをした。

 ひかりはこくりと頷く。


「Vtuberの話なんだけどさ、私の推しのことで」

「ひかりの推しって言うと……ああ、宮本ミカン、だっけ?」

「そうなんだけど……いまはそうじゃないの」

「推しが変わったのか?」

「えっとね、私が推しへんしたんじゃなくて、推しの方が変わっちゃったの。これまでとは別の存在に」

「……というと?」


 ひかりはどこから話そうか迷っているようで、うーんと唸る。


「まだ私も受け止めきれてないんだけど、”転生”……って言ってわかる?」

「ある日突然トラックに跳ねられて、気がついたら異世界に――」

「そうじゃなくて、Vtuberの魂――中の人のことね。その魂が他のキャラクターに移動したってこと」

「へーなるほど、それで”転生”か。なんか上手い表現だな。要するに、宮本ミカンの中身をやっていた人間がそれを辞めて、別のVtuberをやりだしたと」

「そうなの」


 オタクたちの言葉というのは少し目を離した隙に目まぐるしく変化していて、素直に感心してしまう。ただ、そこで一つの疑問が生じた。


「その場合どうなるんだ? ひかりが応援していたのは、中身の人間なのか、それともキャラクターの方なのか」

「その質問に答えるのってもの凄く難しいの。Vtuberの定義って色々とあって、哲学の専門家が論文とか出してるくらいだから」

「じゃあシンプルな質問に変えると、キャラが変わって、これからもファンを続けるのか?」

「私はね、これからもその子の活動を応援しようと思ってるんだ。でもね、それがちょっと難しそうで……啓ちゃんが手伝ってくれないかなって」

「は? 何を?」

「私と一緒に探偵をやってほしいの」


 幼馴染がついに壊れたのかと思い、俺は口を半分開けた状態でフリーズした。


「……探偵?」

「ワトソンだから本来は助手だけどね」


 更にわからん。

 ここまでコミュニケーションが取れないことってあるか? オタクだからとか関係ないように思えるが。

 本気で彼女のことが心配になってきた。


「ひかり……大丈夫か? ちゃんと寝てる?」

「あーもう、説明するのが難しすぎる。啓ちゃんがVtuberオタクだったら楽なのに。オタク偏差値が三十違うと会話にならないんだよ」

「それは悪かったな」

「そうだ、これ見て! この動画一本でいいから!」


 ひかりはそう言って立ち上がると、俺のすぐ側まで来て床に膝立ちし、PCのマウスに手を置いた。


「おいおい、勝手に触るな」

「大丈夫。検索履歴は見ないから――おっと」


 スクリーンセーバー状態になっていたディスプレイがデスクトップ画面を映し出すと、そこにはソフトウェア開発に使う統合開発環境と、俺が書いている途中のプログラムのソースコードが現れた。


「ごめん、これ仕事のやつ?」

「そう」

「機密情報、みたいな?」

「まあいいよ読めないだろうし。で、何を見るって?」


 俺はひかりからマウスを取り上げて、常時起動しているウェブブラウザを前面に呼んだ。

 そのオムニバーにひかりが発した単語を打ち込む。

 世界で最も栄えている動画配信サイト――「YouTube」だ。

 それから指定された単語で検索を掛ける。


「この動画?」

「そう。それで合ってる」


 俺は一番上に表示された動画をクリックした。

 画面が切り替わって、すぐに再生が始まる。



 3DCGの女の子がこちらに向かって語りかけてくる。

 くりくりしたオレンジ色のショートヘアで、服装は鹿撃ち帽にインバネスコート――モチーフは「シャーロック・ホームズ」だろう。探偵事務所とか言ってるし。

 一人称が「ボク」なその女の子は、「ほむる」と名乗った。親しみを込めて「ほむるちゃん」と呼んでほしいそうだ。

 Vtuberというと、素の自分に限りなく近いキャラでトークするようなイメージがあったが、これは演技をしている人間の発声に聞こえる。役に入り込んでいる、と言うべきか。


 ほむるは視聴者にチャンネル登録を促し、どうやら自分のファン集団のことを「ワトソン」と呼びたいらしい。これはアイドルグループなんかでもよくある”ファンネーム”的なものだな。そのくらいは俺でもわかる。

 そしてこちらも元ネタは「シャーロック・ホームズ」で、ワトソンというのは名探偵ホームズの相棒役の名前だ。


 ほむるの説明によって段々と話が見えてきた。

 この子がやりたいのは、「視聴者のお悩み解決」のような企画で、その答え――”正解”を出すのもまた視聴者の役目なのだ。

 評価基準は、①依頼人への貢献、②エンタメとしての撮れ高、③愛があることの三つで、”正解”を三回出したワトソンにはほむるから「スパナ」が授与される、と。


「スパナってのは、持ってると何ができるんだ?」

「チャット欄の管理とかかな。例えば変なことを書き込んでる悪質なユーザーをブロックしたり。あとは、自分がコメントを書き込む時に名前が青色の文字になって、かなり目立つの」

「なるほど、他の視聴者との間に差をつけられるのか。そりゃ確かにファンからしたらご褒美だな」

「まあ、推しに認知されたくないって人もいるけどね。私はそうじゃない」

「つまり欲しいんだな、スパナ」

「うん」

「頑張れ」

「へ?」


 動画の再生が終わり、聞こえてくる音はデスクトップPCのファンだけになった。

 俺からは特に言うことは無い。


「待って。待ってよ。啓ちゃんにしか頼めないことなの。ほら、ここ見て」


 ひかりはPCの画面を指差した。

 そこにはこう表示されている。



〈ほむる探偵事務所 チャンネル登録者数1万人〉



「ほら、わかる? これがチャンネル名で、こんなに登録者がいるの」

「そうか、推しが人気でよかったな」

「よくないよ! だって、これみんなライバルだもん!」


 声でか。お隣さんはもう帰ってきてるんだろうか。


「たとえライバルが多くても、その中で頑張るのがファンってものなんじゃないか?」

「そういう推し活の姿勢は正しいし、すごく正論だと思うよ。でも、正しいだけじゃ勝てないの」


 ひかりは床に跪いて、顎の前で両手を強く合わせた。


「啓ちゃん、お願い。私と一緒にワトソンになって?」

「嫌だよ。別にVtuberに興味ないし、面倒くさい」


 ひかりは少し黙って、それから、泣き出した。


「ひえーん!」

「ああ、泣くな泣くな」


 こいつ、本当に同い年かよ……。

 ここまで精神的に幼いとは思っていなかったが、これは推しVtuberが絡んでいるせいか?

 まったく、オタクという生き物は扱いが難しいな。


「啓ちゃんまた私のこと見捨てるんだ! もう絶交だよ! それから、死んでやる!」

「死んだらどっちにしろ会えないだろ」

「うるさい! もう啓ちゃんのことなんて嫌い! このドS! うわーん!」


 うるさいのはお前だ。――なんて言ったら余計に騒音レベルが上がりそうなので、ぐっと堪える。ご近所さんに通報されても困るし。この幼馴染はこうなると本当に厄介だ。


「そもそも俺が協力したって力になれない。Vtuberのことなんか何もわからないんだから」

「でも、啓ちゃん賢いから」

「一万人の中で一位になれるほどは賢くないよ」

「そんなことない! 湖傘啓こがさけいよりも賢い人間なんて、これまで生きてきて一人も見たことないもん!」

「買いかぶり過ぎだ」


 俺は、そんなに出来の良い人間じゃない。

 人間関係のトラブルで高校を中退したような男に、一体何を期待しているのか。


「私はね、使スパナが欲しいの」

「……それは脅しか?」

「そうかもね」


 その言葉を聞いて、脳裏には彼女との鮮烈な過去がフラッシュバックする。



 煙が上がる職員室。

 大声を上げて駆け回る教師たち。

 そして、怒り狂い全身が汚れにまみれても尚綺麗なあの横顔。



「こりゃ参ったな……」

「手伝ってくれたら何でも言うこときくから。好きに命令していいし、その……えっちなことだってちょっとくらいなら――」

「いや、それはいらない」

「逆に失礼じゃない?」


 とにかく、ひかりが本気なのは理解した。それならば……。


「……仕方ねぇな」

「え、いいの?」

「ただし一つ条件」

「何?」


 ひかりはキラキラとした瞳を真っ直ぐこちらに向けてくる。


「ちゃんと学校行って、卒業してくれ」

「えっ……うーん」


 そしてその瞳に動揺の色が混ざる。


「そんなに嫌か?」

「ううん、推しのためなら頑張れる!」

「じゃあ交渉成立。マジで今回だけだぞ」


 と言いつつ、「今回だけ」を言い慣れていることに気が付いて、ため息が出る。


「まずはこれまでの依頼人の相談と、”正解”もセットで見せてくれ」

「え? まだ一つも出てないけど。だってこの動画が投稿されたの三日前だもん」

「そうなのか。それじゃあ依頼ってのがどんな形式なのかもわからないな」

「そうだね……でも啓ちゃんに相談するなら早いほうがいいと思って」

「……まあいいや。じゃあ何かわかったら改めて連絡してくれ」

「うん!」


 しかし、他のVtuberから転生して三日で登録者数一万人を達成か。凄まじくテンポの速い世界だ。果たして今の俺についていけるだろうか。


「あんまり期待しないでくれよ。インターネット的なコミュニティはここ二年間ほとんど出入りしてないんだ」

「わかってるよ。でも、啓ちゃんならきっと大丈夫だから」


 そう言って、ひかりは満面の笑みを見せる。ついさっきまでぴーぴー泣いていたくせに、感情の忙しないやつだ。

 それからひかりは、さっき俺がコンビニで買ったハニー・ツイスト・ドーナツを平らげて、颯爽と帰っていった。


 最初の”依頼人”が現れたのは、それから二日後のことだ。

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