第四話

 妨害って言っても何をすれば良いんでしょうか。


 と私は最初思っていましたよ。社交の場で人を手を広げて通せんぼするような無作法は出来ませんからね。アジュバール様の横にいて近付く令嬢やご夫人を睨み付ければ良いのかしら? それも優雅ではありませんし、アジュバール様の方から女性に声を掛けに行くのは止められません。


 しかし、その懸念はすぐに無くなりました。


 考えてみれば分かるのですが、アジュバール様の横に王太子妃である私が立っていて、二人でお話でもしていれば、それに割り込むような非礼が出来る筈が無いのです。ましてアジュバール様に声を駆けて来ようとする女性は、彼に浮気を誘いに来るわけです。王太子妃たる私の目の前でそのような行為に及ぶ度胸のある方は、まぁ、それほど多くはありませんでしょうね。


 そして、当のアジュバール様はお約束をしたからか、ご自分の方から女性に近付くことはありませんでした。おかげで彼の周りを貴族女性が取り囲む状況は私がただ居るだけで解消出来たのです。


 しかしながらそれは同時に、私とアジュバール様の周りに誰も近寄ってこない、という事を意味します。いえ、本当は年嵩の既婚者の方々を近くにお招きして私がアジュバール様の近くに取り残されないようにする計画でした。


 ところが、アジュバール様は側に私しかいない状況になると、喜々として私に話掛けてくるようになったのです。私にべったり貼り付いて親しげにお話をするアジュバール様を見れば、皇太子と王太子妃が仲良くお話をしているという風に見えるでしょう。他の方が近付いてくるのを遠慮するのも無理はありません。


 いや、私は逃げようとしましたよ。しかしながら彼の側にいるのは王国のための任務です。離れられません。それを良いことにアジュバール様は私に殊更に貼り付いて、時には腰や肩を抱いてびったりと接触してきます。これが無礼に当たらない、私が怒り出さない絶妙な線を見極めて接触してくるのですから、これはこれで大した技術です。流石はほんの二週間で王国貴族女性を虜にした男です。


 本来であれば、シャーヤ様に付いたローディアス様もなるべく近くにいる予定だったのですが、シャーヤ様はローディアス様の腕を取ってさっさと離れていってしまったのです。ローディアス様だってシャーヤ様を無理矢理引っ張って動けなくする権限はございませんからね。彼女を野放しにしないためにはやむを得ない処置でしょう。お陰で私はアジュバール様のところに取り残されてしまったのです。


 アジュバール様は近付いて来ない女性達に未練は無さそうでした。近くにいる私にこれ幸いという感じで話し掛けてきます。まさかこれに応対しない訳にもまいりません。私はちょっと困ってしまいましたね。


「ソフィア様とお話が出来て楽しいですな。中々親しくお話をする機会がなかったからな」


「ほ、ほほほほ。そうでしたか」


 それはなるべく離れるようにしておりましたからね。


「私はソフィア様とこそ仲良くしたかったのですよ」


 アジュバール様が私をその緑の瞳に映しながらうっとりと仰いました。同じ緑でも私のよりも青み掛かった暖かな色合いの緑色です。


「そ、そうなのですか。それはまた何故でございましょう?」


「勿論、貴女に興味があるからに決まっているだろう?」


 アジュバール様が秀麗なお顔を輝くような笑顔にして仰います。段々お顔が近付いて参ります。逃げようにもさりげなくアジュバール様は私の腰を掴んでおりまして、逃げられません。私は内心焦りながら言いました。


「私に興味をもっていただけるような事が何かございましたか?」


「それはもう。そのお美しさ。はかない金髪に白雪のように白い肌。お顔立ちは凜々しくも愛らしく、立ち姿は柳のように優美だ。意志の強そうな眼差しも良い」


 アラストーヤ帝国には雪が降らない筈ですけど、多分女性の美しさを讃える形容詞としてどこかで学んだのでしょうね。


「間違い無くこの王国で一番の美女であろう。私は美しいものが好きだ。それは興味を持たずにいられようか」


 と言いながらグイグイと寄って来ます。熱烈に愛の言葉を囁きながらあからさまに迫るというのは、我が王国の恋愛の作法にはありません。この辺がもしかしたらアジュバール様が王国の女性の心を虜にした要因なのかも知れませんね。


「そ、そうですか。ですけど。アジュバール様にはあのようにお美しいシャーヤ様がいらっしゃるではありませんか」


 私はお妃様の存在を思い出させて牽制を試みます。するとアジュバール様は一瞬痛そうに顔を顰めました。


「……まぁ、シャーヤは美しいがな」


 しかし一転、アジュバール様は明るく笑い、私の左手を握ります。


「しかし今は貴女だ。このような機会だから是非貴女の事をよく知りたいし、貴女に私の事を知ってもらいたいのだ!」


 アジュバール様は私の手を引いてダンスを踊り始めます。アジュバール様のステップは力強く、流れるような静かさが持ち味のローディアス様の踊り方とは違った魅力がお有りでした。ダンスの相性は男女の相性です。正直、彼のダンスは上手で心地良く息もリズムも合って快適でした。


 これは確かに彼が女性を魅了するのも頷けます。


 そしてダンスの最中にも彼は私に熱烈に愛を囁いてきました。


「鹿のようなステップだ。躍動的で素晴らしい」「貴女の香りは蜜のように甘い」「この柔らかな肢体をもう少し引き寄せたくなる」「貴女の瞳は月の光のようだ」


 とまぁ、口を開けば私への賞賛がこぼれ落ちるのです。その甘さたるや聞いてるだけで胸が焼けそうになる程でしたね。


 アジュバール様の口説き方は、ひたすら女性の事を褒めちぎるというものらしく、それ以外の事はなさいません。私も男性から口説かれた経験はありませんから詳しくは知りませんけど、男性が女性にアピールする場合、男性自身の事、地位ですとか功績ですとか、そういう事を誇示してアピールするものだと思います。ですが、アジュバール様はそういう事はなさらないようです。


 「私はアラストーヤ帝国の皇太子なのだ」と誇るようなところがあっても良いと思うのですけどね。アジュバール様は兎に角女性を丁重に扱って下さり、女性を見下すような態度はなさいません。男性貴族には女性は男性に従属するものと考えている方も少なくありませんので、こういうところも彼が貴族女性から支持を集める要因なのかも知れません。


 実際、アジュバール様と夜会で過ごすのは心地良かったですよ。私がベタベタ触れられるのが好きではないと見切ったアジュバール様は、適切な距離感を意識して下さるようになったのでより一層快適になりました。


 いろんな国を歴訪していらっしゃるから、そのお話は興味深く、話術にも長けているらしく話題を変化させて私を飽きさせません。私は時間を忘れてアジュバール様との談笑を楽しんでしまいました。


 結局、その日の夜会では私以外の女性とアジュバール様が会話することもなく、妨害は成功に終わりました。……何か違う気が致しますが。


 釈然としない思いでアジュバール様たちが退場するのをお見送りし、私はローディアス様のところに行きました。


 ローディアス様はソファーに座ってぐったりと俯いていらっしゃいましたよ。私は少し驚いて夫の肩に手を置きました。


「どうなさったのですか? ローディアス様」


「どうしたもこうしたも。疲れただけだ。君は平気そうだな?」


 恨みがましい響きを感じます。どうしたのでしょうか?


 とりあえず離宮に引き上げる事にして、ローディアス様に立って頂き、彼の腕を取ると、ムワッと嗅ぎ慣れない香水の匂いが漂ってまいりました。私が思わず目を丸くすると、ローディアス様が笑顔のままげんなりとしたご様子を見せました。


「シャーヤ様がベッタリくっ付いて離れなかったのだ。強い香水だったからな」


 ああ、私はアジュバール様のお相手で忙しくてローディアス様とシャーヤ様の事を見ている暇が無かったのですが、ローディアス様もシャーヤ様の猛アタックを受けていたような気配です。


 ローディアス様も鼻を動かしてわずかに嫌そうな顔を致します。


「君からも知らない匂いがするな」


 それはあれだけアジュバール様の側にいたら香りが移るでしょう。私はちょっと慌てました。ローディアス様は私の香りが無いと安眠出来ないと仰せなのです。これはお風呂で念入りに匂いを落とさなければなりません。


「……ですけど、お二人に貴族子女を近付けないという目的は果たせましたわよね?」


 私は気を取り直してそう言ったのですが、ローディアス様は軽くため息を吐いて仰いました。


「どうだかな。かえってあの二人の術中に陥っているような気もするが……」


  ◇◇◇


 それからというもの、私は夜会に出る度にアジュバール様の猛アピールに晒され続けました。


 アジュバール様は夜会の間中、私の側から一切離れません。それは私の方も彼を牽制する必要上、彼の側にいなければならなかったからですけど。それにしても入場して、最初のローディアス様とのダンスが終わると、さっとローディアス様から私の手を奪って行く様は「ソフィアは私のモノだ」と主張しているようにしか見えません。ちなみに同時に、ローディアス様もシャーヤ様に奪われています。


 まぁ、私とローディアス様が身体を張った甲斐があって、私たちに持ち込まれるお二人についての苦情は激減いたしましたけどね。


 しかし代わりに変な噂が流れるのは仕方がない事ではありました。即ち「ソフィア様はアジュバール様と不倫なさっている」「ローディアス様はシャーヤ様にご執心らしい」無理もありません。


 そんな事はありませんよ、と言ってもこの状況では説得力がありませんでしょう。実際には私とローディアス様は離宮に帰るとその日の夜会での事を報告しあって、その後一緒に寝ております。でも、アジュバール様とシャーヤ様がご滞在なさっているのが王宮の敷地内にある迎賓館であるために、王宮敷地内でこっそり私とアジュバール様、ローディアス様とシャーヤ様が逢引きしているのではないかと疑われているのです。


 もちろん、社交の場でも私ははっきり否定して回ってはいましたけども、噂話というのは真実よりも面白いかどうかが重視されるものです。王太子夫妻と皇太子夫妻が夫婦を取り替えて乱れた生活に及んでいるなんてこれ以上に面白いお話はありませんでしょう? 否定は全くの徒労に終わりました。


 なんですか乱れた生活って。そもそも問題、私とローディアス様は乱れる以前にまだ関係してもおりませんよ! なんて事は言えません。別の意味で大問題で噂になってしまいます。


 私とローディアス様の関係の良好さを訴えても無駄でした。そもそも貴族の浮気や不倫は配偶者の公認である事がほとんどで、夫婦の関係が冷め切っていても公的な場面では仲睦まじさを演出するのは貴族なら当然でございます。実際、アジュバール様とシャーヤ様も実に仲良しに見えますもの。浮気不倫は遊び。夫婦関係とは別。そう見られてしまうのです。


 そんなわけで、王太子夫妻と皇太子夫妻が夫婦を取り替えてダブル浮気不倫をしているという噂はもはや常識レベルに広まってしまっているようでした。幸いなのは国王陛下と王妃様が真実を知っていらっしゃった事で、私に「苦労を掛けるが頼む」と仰られましたよ。これが陛下にまで誤解されたら、他国出身の私は離縁されて国に戻される危険さえありましたから一安心です。


 それにローディアス様もこれほど噂が広まっても私を疑うような事は全くございませんでした。


 そもそもがローディアス様の発案で私はアジュバール様の側に付いているのですから、疑われても困るのですけどね。アジュバール様がこれ見よがしに私と密着してダンスをする様を見せつけても、私の肩を抱いてローディアス様に話し掛けても(もちろんその時にはシャーヤ様がローディアス様にくっ付いていたのですけども)ローディアス様の態度に変化はございません。


 私はローディアス様の表情を読む事に掛けては誰にも負けません。完璧に麗しい貴族笑顔をしていても誤魔化される事はありませんよ。その私が断言致しますが、ローディアス様のご様子に変化はございませんでした。毎日一緒に寝ておりますしね。お互い、お風呂でお二人の香りを念入りに落としてからですけど。


 これがローディアス様が私を疑ったり不機嫌なご様子を見せるようでしたら私は困ってしまうところでした。でもローディアス様が揺らがないのなら私は堂々としていれば良いわけです。どうせお二人はその内お帰りになるのです。そうすれば噂も消えるでしょう。


 そう考えて噂を気にしなければ、アジュバール様のあしらい方も分かってまいります。彼の褒め言葉はありがたく頂き、過度なスキンシップはさりげなく避け、後は楽しくお話ししていれば良いのです。彼のお話は本当に面白いのですから。


 そうやって一カ月程もアジュバール様のアピールを受け流し続けておりますと、なんだか彼の焦りを感じるような事が多くなってまいりました。


 おかしいなとか、そんなはずが無いというような感情ですね。「貴女を愛しているのだ」「貴女が欲しいのだソフィア様」というように愛の言葉もかなり直裁的になり、際どい所にまで手が伸びて、私がその手を払うような事まで起こるようになります。


 おそらくですけど彼の経験上、こんなにも熱心にアピールをして女性が全く靡かなかったという事が、これまで無かったのではないかと思われます。アジュバール様は本当に魅力的ですしね。それがこれほど情熱的に迫ってきたのなら、惹かれるのが当たり前なのかも知れません。


 少なくともアジュバール様はそう考えているようでした。どうしてこの女は自分に靡かないのか。深刻に考え込んでいる風情です。


 実は私もちょっと不思議でした。こんなに念入りに男性から愛を訴えられた事などありませんでしたし、そもそも私には恋愛経験など無です。それが百戦錬磨であろうアジュバール様の本気のアタックに心がなぜ動かされないのでしょうね。


 どうもこれはシャーヤ様に猛アピールを受けているローディアス様も同じのようでしたよ。シャーヤ様もローディアス様と仲良しであると主張して、わざわざ私の前でローディアス様に抱き付いたりキスを迫ったりするのですけども、ローディアス様は笑顔のまま受け流しております。私が見れば分かります。あれは迷惑で辟易としているというお顔です。


 そんな訳で私たちが反応しないおかげでお二人は焦りと苛立ちを強めているようでした。そうこうしている内にお二人がいらしてから二ヶ月が経過致しました。そろそろお二人もお帰りの事を考えなければなりません。


 お二人としては、狙った男女にあしらわれたままでは帰れない、と考えたのでしょうかね。ちょっとした作戦を考えたようでした。


  ◇◇◇


 ある夜会の席で、私は相変わらずアジュバール様のお側にいました。もうすっかり慣れた私はアジュバール様の過剰なボディタッチのみを回避し、彼の愛の言葉は聞かなかった事にして、楽しくお話をしておりました。彼の話すアラストーヤ帝国や近隣諸国の様相は、私にとっても王国にとっても貴重な情報でしたから、私は積極的に話を引き出し、それをまとめてローディアス様に報告する、スパイの真似事のような事までしておりましたよ。


 その時、アジュバール様がわざとらしいような大きな声で仰ったのです。


「おや、シャーヤとローディアス様の姿が見えないな」


 言われて夜会の会場を見渡しますと、確かにローディアス様とシャーヤ様のお姿が見えません。


「おやおや、あの二人も隅に置けないな。二人きりになりたくてどこかへ隠れたのだろう」


 ギクっとしました。そうです。夜会の会場から二人で消えるというのは、つまりは二人だけになりたいので別室に移ったという事を意味します。非常に良くある事です。むしろそうしてわざわざ夜会の会場で二人でいなくなる事で、周囲に自分たちの仲を知らしめる意味合いまであります。


 そしてローディアス様とシャーヤ様が会場からいなくなったというのは、つまりそういう事だと見做されてもおかしくはありません。


 もちろんこれまでは、私もアジュバール様にどんなに強引に誘われても会場から席を外す事はありませんでしたし、ローディアス様も同様でした。それがここに来てローディアス様とシャーヤ様がお二人で会場を出られたとなると……。


「ついにシャーヤの奴、ローディアス様を落としたかな。まぁ、仕方がない。シャーヤは魅力的だからな。ローディアス様も男だったという事だろう」


 という事なのでしょうか。昨日までのローディアス様はいつもと変わらないように見えましたし、シャーヤ様の猛攻撃を迷惑に思っているようにしか見えなかったのですが。


「まぁ、そのようにショックを受ける事はない。シャーヤに靡かぬ男などいるわけが無いのだ。今頃二人はよろしくやっておるだろう」


 ……アジュバール様から指摘されて、私は自分が思ったよりも動揺している事を知りました。


 動揺。何を? 私はなんで動揺しているのでしょうか? それは勿論、ローディアス様がシャーヤ様と席を外された事に動揺しているのでしょう。では、なぜ? なぜ私はその事に動揺しているのでしょう。


 それはやはり、私がローディアス様について安心していたからでしょうね。あの方が私以外の女性に靡く事は無いだろうと安心していたのです。


 しかし、なんでそんな安心を持っていたのでしょうね? 


 私たちは夫婦とはいえ、政略結婚で愛情など何処を探しても無い夫婦ではございませんか。それにまだ肉体関係も持たず、子供もいない。フワフワした関係の夫婦です。それなのに私は、ローディアス様が浮気するなどあり得ないと思い込んでいたのです。だからこんなにショックを受けているのでしょう。


 呆然とする私の耳にアジュバール様の言葉が滑り込んで来ます。


「なに、王侯貴族の夫婦関係などそんなものだ。夫婦は形だけ。心は別。それが当たり前ではないか。さぁ、私たちもあちらを見習って楽しくやろうではないか、ソフィア様」


 アジュバール様が許されないくらいお顔を近付けているのは分かりましたが、私はちょっと動けないでおりました。それを見て、アジュバール様の手が私の肩に、そして首筋を撫でます。そして私の顎を優しく押さえます。


 周囲で騒めきが起きました。明らかに公衆の面前で行って良い接触の範囲を超えております。そしてアジュバール様の蠱惑的な深い緑色の瞳が正面から私を見据えました。


 それでも私は動けません。というより、私はこの時アジュバール様の事ではなく違う事を考えておりました。


 ローディアス様の事です。ローディアス様は本当にシャーヤ様の魅力に陥落してしまったのでしょうか? 私ではなくシャーヤ様を選んだのでしょうか? 私は考えます。もしも彼が私ではなくシャーヤ様を選んだとしたら? 私はどうしたら良いのでしょうか。


 離縁、などは出来ません。私とローディアス様の結婚はサルバーン王国とエリクス王国との結び付きを強めるための純然たる政略結婚です。愛などなくても維持しなければならないものです。


 愛が欲しければ恋人を作れば良いのです。ローディアス様は私とでは満たされない愛情を満たすために、シャーヤ様と恋愛関係になったのでしょうか。


 もしもそうであれば、愛し合っていない夫婦である私は、彼の恋愛を認めるしかありません。それが王侯貴族としては当たり前であり、愛してもいない結婚をしている相手としての誠意ではありませんか。


 そしてそうであるならば、私も恋愛しても良い筈です。例えばそう。ここにいる美男子であり積極的であり、大層魅力に溢れた男性。今にもキスをしようと唇を近付けているこの男など良いのではないでしょうか。もうすぐ帰国してしまう相手です。後腐れがなくてアバンチュールとして最高ではありませんか……。


 ……嫌ですね。


 嫌です。私は間近に迫っていたアジュバール様の頭を両手で押し除けました。結構思い切って押しましたから、アジュバール様はバランスを失って尻餅を付いてしまいます。彼は呆然としていらっしゃいましたね。


 私は腹を立てていました。何について怒っているのかは良く分かりませんが、とにかくその怒りをアジュバール様にぶつけます。八つ当たりです。


「ローディアス様とシャーヤ様がくっついたからと言って、なんで私が貴方とくっつかなきゃならないのですか!」


 私の言葉にアジュバール様は驚き、そして流石に気分を害したという顔で仰いました。


「それは私では相手に不足だという事ですかな?」


 私はアジュバール様を睨み付けて言い放ちました。


「だって私は、毎日毎日ローディアス様と過ごしているんですよ! 貴方はどこを取ってもローディアス様に敵わないではありませんか!」


「は?」


 アジュバール様の目が点になってしまいますが、これが私の本音です。私に言わせればアジュバール様は容姿も性格もダンスも何もかも、ローディアス様には及ばなく思えるのです。なにしろローディアス様はあの美しいご容姿で文武両道で、それでいて驕る事なく、兎に角男性の理想像と言っても過言ではございません。


 その彼と毎日毎日暮らしているのですよ。アジュバール様がどんなに魅力的な男性でも見劣りするのは仕方がありませんでしょう? アジュバール様が悪いのではありません。ローディアス様が良過ぎるのです。


 ローディアス様が私に不満を持ち、浮気をするのは仕方がないとしても、もしも私が不倫をするのであればローディアス様に勝る何かがある方と恋愛をしたいものです。つまり。


「貴方ではローディアス様の代わりにはなれません。不足です! 貴方を代わりに愛するなんてローディアス様に失礼です!」


 盛大にぶっちゃけた私に、アジュバール様は口を開けて愕然とし、次にブルブルと肩を震わせました。


「い、言わせておけば! 貴女こそシャーヤに勝るところなどないくせに! 私とてシャーヤが私を愛してくれれば、他の女などいらぬのだ!」


 アジュバール様は私に向かって確かにそう叫びました。……あら? それを聞いて私はびっくりしましたよ。アジュバール様とシャーヤ様は仲睦まじいように見えましたからね。でも、この口ぶりだとちょっと事情がありそうな……。


 その時、会場の入り口からローディアス様が足早に入ってくるのが見えました。お一人です。そして私の方を見ると目を丸くしました。それはそうでしょうね。私が憤然と立ち上がり、アジュバール様が尻餅を付いたまま真っ赤な顔をして怒鳴っているところでしたから。


 ローディアス様は慌てたように私のところにやってきて、私を背面に庇うような格好をなさいました。そしてアジュバール様に言います。


「失礼。妻が、何かご無礼を?」


 アジュバール様はなぜか気まずそうに、小さな声で仰いました。


「い、いや。何も。随分早かったではないか」


「シャーヤ様が体調を崩されたようだったので、別室にご案内致しました」


 ローディアス様の表情からすると、どうもそれだけではなかったような感じです。おそらく、体調を理由に別室に案内された時に、かなり強引にシャーヤ様に迫られたのではないでしょうか。


 それを振り切って会場に帰ってきたら、私とアジュバール様がこの状態だったと。つまりこれは、おそらくお二人は示し合わせてこの状況を作り上げたのだろうと思われます。


「アジュバール様。シャーヤ様は体調が思わしくないご様子。付き添われた方が良いのではないですか?」


 私が言うと、アジュバール様はなんだか酷く傷付いたようなお顔をなさいましたや。しかし疲れたように項垂れると「そうしよう」とだけ言ってヨロヨロと立ち上がり、フラフラと会場を出て行きました。ローディアス様が不思議そうに首を傾げます。


「どうしたのだ? 彼は?」


「……どうもあのご夫婦も色々複雑なようですよ」


 私はそう言うと、ローディアス様の腕を抱いてホッと一息吐いたのでした。


 

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