第1章 第19話 過去
天音の母である一条美空は優秀な陰陽師だった。
旧名は一ノ瀬美空。陰陽術は使えなかったが霊感を持ち、使い手を剣自らが選定する「開耶姫」を振るう現代最強と名高い陰陽師であった。だが、美空は家に恵まれなかった。陰陽師の世界で最も強い権力を持つ一条家。その遠縁にあたる血を美空は引いていたのだった。
当時の一条家の当主であった一条道長は野心と情欲に忠実な男であり、霊感は無く当然陰陽術も使えない権力だけの名ばかりの陰陽師。そんな道長は一ノ瀬家が一条家の遠縁であることが分かると、今まで一切の関わりがなかった一ノ瀬家に本家としての権力を行使し圧力をかけ始める。
道長は美空を強く欲した。だが、それは美空の魅力に惹かれた訳ではなく、現代最強の名と「開耶姫」を持つものが一族にいるというステータスが欲しかったに過ぎなかった。道長の良くない噂は美空も良く知っていた。しかし、情に厚く誰よりも優しく綺麗な心を持つ美空は、家族を守るために一条道長の妻として一条家へ嫁入りした。
そして、一か月もしない内に美空が新しい命を授かったことを知ると同時に、道長は美空を家から追い出した。それがその当時の一条家では日常的なことであり、道長に意見するものや美空を気遣うものは誰一人いなかった。
美空は一条という姓から解放されないまま一ノ瀬家に戻り、天音を家族の手を借りながら育てた。美空は強い女性であった。一条家の非道な仕打ちにあったからも歪むことなく善性を保ち続け、天音に惜しみなく愛情を注いだ。
だが、天音が三歳になった頃。一ノ瀬家はある悲劇に襲われた。
美空が祓ったと思っていた亡者が長い年月を経て力を取り戻し、その力を増幅させて一ノ瀬家を襲った。家を取り込むまでに増大した怨念、不意を突かれたこと、美空が陰陽師を引退して四年経っていたことなどが重なり合い、美空を含め家にいた一ノ瀬の人間は重症を負うことになる。それでも、美空を含む一ノ瀬の人間が重症で済んだのは、天音が無意識に「束霊封魄」を発動させたからだった。天音はこの時初めて「束霊封魄」を使い、悪霊を身体に封印した。だが、その激痛で心肺停止状態にまで陥った。
だが、これは悲劇の序章に過ぎない。
奇跡的に一命を取り留めた美空や天音、一ノ瀬の人間は、この一件を教訓に悪霊への警戒を強め、またいつもの日常へ歩み出そうとしていた。しかし、この一件の顛末を聞いていた道長は天音に対して興味を持つ。
天音が生まれた時も何一つ言葉を送ることがなかった道長は、美空に婚姻を迫ったときと同様に本家としての権力と父親の権利を主張し、天音を一条家へ連れてくるように要求した。これには美空も一ノ瀬家も道長の要求を跳ね除けて、どのような圧力に対しても抵抗した。美空が陰陽師として活躍していた間の縁もあり、美空の婚姻の時と同様に裏で一ノ瀬家を支援する家も多くあった。一条家は当初、すぐに一ノ瀬家は折れると考えていた。だが、美空が母親としての意地にかけて天音を守るために戦う決意をしたため、一年経っても一条家は天音に手を出せないでいた。
そして、さらに一年が経とうとしたとき、この騒動は最悪の形で決着がつく。
美空の事故死。
信号を待っていた美空のところに加速した車が突っ込んだ悲惨な事故。この事故は数人の死傷者を出し、美空はその一人であった。
これにより父親の権利を主張する道長に対抗できる者は居なくなり、天音が六歳の頃に道長が引き取った。
「おじさん誰?」
父親を知らない天音が道長に尋ねた。だが、道長はその言葉を無視して、謁見室で頭を垂れて待っているベタ付いた髪をした痩せた男に話しかけた。
「何か見えるか?」
「道長様。あなたのご息女は大変強い力を持っていらっしゃいます」
「ほう。やはりそうか。連れて行け」
悪い顔で笑う道長は側付きに命令すると、天音を地下に連れて行かせた。
天音は闘技場のような広い間に連れて行かれた。その広い間の周りは観客席になっており、道長とベタ付いた髪の男はそこから広間で不安そうな顔をしている天音を見下ろしていた。
天音が不安な顔で周りを見ていると、一体の亡者が天音の前に現れる。天音は顔を恐怖で引き攣らせ、泣きながら広間を逃げ回った。おかあさん助けて、と天音はひたすら大声で亡き母に向かって泣き叫んでいた。しかし、逃げていた天音はひび割れてできた隙間につま先を引っ掛けて転んでしまった。
転んで立てなくなった天音の身体をなぞるように触ってニンマリと笑う亡者。天音は恐怖に怯えた顔で声すらもう出なくなっていた。
拒絶の意思と共に二度目の「束霊封魄」を天音は発動する。悪霊が身体に入ってくる凄まじい激痛に天音は呻き叫んだ。
「素晴らしい。ご息女は素晴らしい才をお持ちですぞ」
ベタ付いた髪の男は悪霊が天音の身体に封印されていくのを見て、感極まったように声を張り上げた。
「ほう。申してみろ」
「ご息女は邪のものを自身の身体に封じ込める力をお持ちでございます。その才はまるで陰陽師ですな」
「だが、毎回こうでは煩くてかなわんな」
「そこは教育すればよろしいかと」
「それもそうだな」
こうして天音の苦痛な日々が始まった。
道長が手始めに行ったことは天音を屈服させ、心を折ることだった。使ったものは純粋な暴力。「束霊封魄」は天音にとって死すらも感じさせる激痛を伴うものであった。そのため、天音は道長に引き取られてしばらくは「束霊封魄」を強要する道長や一条家のものを必死に拒んだ。その度に一条家のものは躾けと称して服や肌着で隠れて見えない部分に暴力を振るう。虐待で騒がれないように健康状態に出るものや身なりで分かるものは使用せず、躾けに使うのはあくまで暴力だけにし、狙う箇所も徹底的に指定した。
半年も経てば天音は道長の言うことは何でも聞く人形と化し、「束霊封魄」の激痛すら声を出さなくなった。そうなってでも天音が自死を選ばなかったのは、幽霊となった美空が居たからだった。
天音が一条家に引き取られて3ヶ月。天音は天国を逆走してきた美空と再開した。無くなったと思っていた涙を天音は目に浮かべ、美空に抱きつく。それから天音は一条家の目がない学校ではずっと美空と過ごしていた。
ある日、天音は美空から事故が道長の配下によって仕組まれていたことを聞かされた。だが、天音は一条家から逃げること無く、美空も天音を一条家から出るように説得はしなかった。
現世にいると言っても美空は幽霊。天音を育てることはもう叶わない。何よりも一条家が存続し続ける限り、逃げ出しても地の果てまで道長は天音を追い続けることは美空も天音も分かっていた。
どんなに扱いをされても、まだ未成熟な天音が生きていくためには一条家が必要だった。
天音と美空の苦渋の決断も知らずのうのうと生きる道長は、天音が人形となると新しいビジネスを始めた。道長は元々、一条家という由緒正しい陰陽師の肩書を使い霊感商法で大儲けしていた。だが、それは所詮インチキ。大金を持つ古くから一条家と付き合いのある日本の中枢を担う人物たちには使えないもの。だが、天音が手に入ったことで陰陽師の仕事である除霊を権力者にも持ち掛けられるようになった。そうして道長は天音を使い権力者から莫大なお金と信用をさらに得て、さらに野心を満たしていった。
そして、天音が中学三年生を迎えようとしていた三月下旬。一条家の関係者全員が変死体となって見つかる事件が起こる。
ことの発端は道長が更なる利益を求めて天音に子を成させようとしたことから始まった。天音から得る莫大の利益で満足できなくなった道長は、天音のような体質者を増やすことを考えた。だが、天音をサンプルとして身体を弄り、遺伝的な研究に回すのは金の成る木である天音を失う危険も伴う。そのため、道長が思いついたのは天音を母体にし、才のある子どもを多く作り出そうという道長の性格を顕著に表した最低の計画だった。
道長に地下室に呼び出された天音を待っていたのは、十数人の男たち。それはどれも一条家で一度は見たことのある者であった。
天音は腕を引っ張られ、床に押し倒される。
扉が占められ薄暗くなった部屋に鍵が閉まった金属音が響いた。
「何をするんですか」
生気を失った目をした天音が抑揚のない声で男たちに尋ねた。
「天音ちゃんにとってイイことをするだけだからさ」
「固くならないで、おじさんに身を任せればいいんだよ」
「じゃあ、服を脱いじゃおうか」
男たちの欲にまみれた手が天音に伸びていく。天音は抵抗することはないまま男たちの意のままにされていた。
枯れたはずの涙が出た。泣くことさえ許されず、いつしか出なくなった感情の結晶。いまから身体の中すらも汚され、犯される。天音に残っていた微かな自我は外の世界を認識することを止めた。
『これでいいのか?』
男たちが天音の身体を弄ぶ中で声が聞こえた。
『俺がこの状況をどうにかしてやる』
「だ……れ……?」
『君を救うものだ』
優しい甘美な声だった。
『さあ、早く君の身体を俺に渡すんだ。そうすれば君を助けられる』
だが、美空が天音を引き留め、心を抱きしめた。
『ダメよ。天音』
「おかあ……さん?」
『ごめんね。遅くなって』
『一ノ瀬美空。また俺の邪魔をするのか』
天音に甘言を囁いていた正体は、天音が初めて封印した悪霊だった。
『しつこいのよ。あなたは。けど、今は感謝しているわ。あなたが出てきたおかげで天音との繋がりが強くなって、一条家の結果を突破することができたわ』
『涼しい顔ができるのは今の内だぜ。一ノ瀬美空。この小娘の心は今さっき崩壊した。この小娘の汚染はもう始まっているのさ。この小娘は五百を超える悪霊の瘴気にどこまで耐えられるかな』
天音の中に流れるのは罪の記憶と恨みの声だった。かつて地獄に落ちても欲望が抑えられずに這い出てきたもの。悲惨な末路を辿り恨みを持って死後の幸福を捨てたもの。普通の人間には耐え切れない悲劇の数々。しかし、壊れた天音にはその記憶は違って見えた。
こうすれば良かったんだ。
理不尽を打破するための教科書。
年頃に見合った力しかない非力な天音だが、亡者の記憶を食らい学習すればするほど奥底から今まで感じたことない力が湧き上がってきた。
今なら亡者から学んだことを形にできる気がする。
不思議と気分が良かった。
「来て」
天音は男たちに身体をベタベタと触られる中で手を伸ばした。
男たちが欲情した歓声を上げる。
だが、天音と繋がったのは男たちではなく美空だった。
『覚えてろよ。一条天音』
天音と繋がった美空は、天音の覚醒と同時に瘴気を纏い姿を変えた。黒く長い髪を下ろし陰陽師時代に着ていた着物と同型の物を身に纏う。
「開耶姫」と同じ長さの刀を作り出した美空は、天音に群がる男たちを目にも止まらね速さで切り捨てた。
男たちが呻き声を上げながら苦しみ倒れるのを見た天音は、笑い声をあげて気の済むまで笑い続けた。
「こんな簡単なことだったんだ」
笑い終えた天音は取れる男たちを見下ろし、その苦痛を滲ませた死に顔を見て満足そうな笑みが溢した。
『行きましょうか』
「ちょっと待って。これあげる」
天音はそう言って黒く禍々しい大太刀を美空に手渡した。
覚醒とともに天音が手に入れた二つ目の特殊霊媒体質「
『これは?』
「お母さん大太刀が得意だったんでしょ?だから、作ってみたんだ。また、お母さんの綺麗な舞が見たくてさ」
『ありがとう。大切に使うわね』
天音と美空は一条家を壊滅させ、その日から天音の世界から人間が消えた。天音の目に映る世界には亡者のようなものがうようよと闊歩している。見た目は千差万別だが、共通して顔は仮面を被るように黒く覆われていた。
それが天音にとっての人間だった。
「どこの世界も変わらないのか」
そして、世界を知るために旅に出た天音は世界の醜さに絶望し、地獄を求めるようになった。
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