第1章 第17話 曇天

 重く湿った匂いが立ち込める。日差しは厚い雲に覆われ、久しぶりに見た青空は天気予報とは裏腹に薄暗く濁っていった。

 一ノ瀬家の修練場から出て半年と二か月。

 あれから全国を飛び回っていた零は、四百と九十九の除霊を終わらせて、残る一件である一条家に来ていた。

 本家の屋敷が分家より小さい訳がない、と零は豪邸を想像しながら覚悟して一条家の主屋に向かったが、実物の主屋は零の想像の一・五倍大きく綺麗だった。

「はっはっは……」

 零は乾いた笑いを出しながら、顔を引き攣らせる。一ノ瀬家の屋敷を見たときは度肝も抜かれたが、これは驚きを通り越して、もはや呆れていた。

 敷地の広さは一ノ瀬家の屋敷の二倍で、大きな母屋の他に蔵が四つ、離れが三つ、今は人の手が入らず荒れてしまった大きな庭と池、そして緑の葉をつけた樹木が生えている。母屋は建て替えて年数がそこまで経っていないようで離れや分家の屋敷のように年季は感じられず、温かな木の色をまだ残していた。

「観光地かよ……」

 零は一通り敷地内を散策した後、母屋の正面を前にして言葉を漏らした。

 もう少しゆっくり見たい気持ちはあったが、これ以上の寄り道は命取りになりそうなので止めておく。

「さて。中に入りますか」

 一条家の母屋に関する資料を思い出しながら零は、母屋の勝手口の扉に手を伸ばした。

 曰く、この一条家の母屋では百に近い数の陰陽師やその関係者が一斉に不審死した。外傷はなく、何かに怯えるような顔で硬直した死体だけが地獄絵図のように倒れていたようだ。

 零が勝手口の扉を開くと、そこに広がっていたのは争ったというよりは逃げ惑い、荒らしたように物が散乱とした惨状。中に進んで行くと、刀を振るったような傷が床や壁の至る所に付けられており、何かに襲われたことが一目で分かる状態であった。

「呪いか……」

 零は一体の亡者が思い浮かべた。大太刀を持った和服の亡者。

 この惨状は一条の人間が暴れたのか、和服の亡者が暴れたからなのか。

 零は足場の悪い道を緊張した面持ちで迷うことなく進んで行った。何かに呼ばれるように入り組んだ廊下を。元から知っていた道のように。

 そして零は、長い廊下の奥の異様に綺麗なままの襖の前で足を止めた。ほとんどの襖が荒らされ、外れているものもある中で、零の正面で閉められている襖だけは綺麗な状態を保っている。

 零が襖に手を掛けた瞬間、異常なまでのプレッシャーが零に襲い掛かる。だが、零は怯まず、その覚えのあるプレッシャーを正面から受け止めて襖を開いた。

 畳の敷き詰められた大広間。そこに待ち構えるように佇んでいたのは、予想通り和服の亡者だった。顔は最初に見た時と同様に黒い靄で隠れており、和服の亡者の構える大太刀が恨みの波動を帯びて零にその感情を伝えてくる。

「ここで来るのか」

 その言葉を皮切りに和服の亡者との戦闘が始まった。

 和服の悪霊の姿が一瞬消えたと思うと、次の瞬間には目の前に迫る和服の亡者。躱せない、と感じ取った零は、短剣を引き抜き大太刀に応戦した。金属が重なる甲高い音は、短剣が砕け散る音へと早変わりし、さっき歩いてきた廊下へと弾き飛ばされる。

 零は咄嗟に短剣を手放して受け身をとり、和服の亡者が廊下に入ってくる前に、零は多少のダメージを覚悟で大広間に飛び込んだ。大太刀が下からすくい上げるように零に迫る。零は身体を捻って身体を左にずらし、頬への掠り傷でなんとか抑えた。

 零はそのまま勢いを殺さずに着地をし、和服の亡者の垂直に振り下ろした刃を避ける。零はそのまま砕け散った短刀の刀身の一部を掴み取り、急いで左の手袋を口で脱ぎ捨てた。そして、零は左の手のひらを深く切り裂くと、迫りくる和服の亡者に流れる鮮血が飛び散るように左手を振るった。

 飛び散る零の鮮血に亡者は速度を落とし、距離を取るように後ろに下がる。

 最初の攻防が終わった。零と和服の亡者は互いに睨み合うように間合いを取り合い、第二戦目の読み合いが始まる。

 最後のピースが揃わない、と零はこれから読み合いの中で苦心する。勝率三割、相討ち五割、逃亡一割。

「それでもやるしかないか」

 空気が変わる。

 零は砕けた刀身を捨て去り、右手の革手袋を外した。そして、ポケットから真っ赤に染まった手袋を取り出して、手に着ける。

 革手袋を作ってもらった後に届いた零の血で染めた真っ赤な手袋。接近戦ができるように頑丈な布で作られており、日常生活には向かないため普段使いはしていなかった。

 零は拳を握り、和服の亡者は剣を構える。

 どちらが先に動くか、緊張感は最高潮を迎えた。

 だが、その空気は第三者の人物によって均衡を崩される。

 何かが近づいてくる気配がする。両者がそれを感じ取った瞬間、純白の刃が大太刀とぶつかり合った。

「天音!」

 天音は跳びかかるように刀を振るい、和服の亡者は急な襲撃に怯むことなく大太刀で受け止めた。天音と和服の亡者の拮抗はすぐに崩れて、天音は和服の亡者に弾かれて零の方へ飛んでいく。天音は脱力し華麗に着地をすると零と並び立った。

「久しぶり」

 天音が和服の亡者から目を離さずに話しかけた。

「どうしてここに居るんだ」

「待っていたんだよ。あの亡者は私一人では倒せないからさ。成長した零と二人がかりなら行けると思って」

「そういうことか。なら俺がやつを引き付つけて隙をつくる。俺に決定打はないしな」

 零は拳を構え直して三歩だけ前に進んだ。

「オッケー。よろしく頼むよ」

 そう言って天音は正面を向いている零を後ろから切りつけた。

 完全な不意打ち。

 これは失敗しようがない、と天音は成功を確信していた。

 零は天音の不意打ちに警戒していたように振り下ろされる刃を躱し、躱されたことに驚きを隠せず隙だらけの天音に蹴りを入れた。

 和服の亡者は零の気が天音の方に向いたのを見逃さず、一気に距離を詰めて切りかかる。零は天音を和服の亡者の正面に蹴り飛ばし、天音を大太刀の盾とした。天音が正面に飛び込んできた和服の亡者は、速度を落とし、大太刀を手から離すと、両手で天音の身体を受け止めた。

 和服の亡者が天音から手を離し、二人は並び立つ。

「化かし合いはもう終わろうぜ」

 零は拳を構えるのを止めて、静かに天音に告げた。


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