第1章 第14話 黎明

 ああ、落ちていく。

 零は身を空気に委ねるように背を向けて風を切る。血のような赤い空を照らす白く輝く太陽と離れていくのをただジッと見つめて。

 離れ行く太陽を映し続ける瞳に光は無く、脅迫観念に突き動かされるように何を想うわけでもなく一心不乱に白い太陽を眺めていた。

『零。今までよく頑張ったね。もうゆっくり休んで良いのよ』

 母の声と共に温かな風が落ちていく身体を包み込む。母に優しく包容されていた懐かしい日々が零の頭の中を駆け巡った。

「俺は死ぬのか」

 無意識に言葉が出た。

 ずっと望んでいたことだ。それでも、こんな終わり方は嫌だった。

 最も信頼していた人に裏切られて死ぬ。

 天音のあの悪魔のような笑みが零にすべてを悟らせた。

 憎しみ。恨み。怒り。

 零を最初に支配した感情。だが、そんな感情は時間と共にさらに大きな感情に飲み込まれていった。

 喪失感。

 今の零を支配しているのはその一色。

「なんで……」

 言葉が返ってくるわけでもないのに零は太陽に問いかける。瞳から溢れ出す涙は宙を舞い、太陽の姿が滲んでよく見えない。その涙でさえも零の瞳に潤いを与えることはなく、砂漠のように渇いた瞳は太陽を永遠と映していた。

 空っぽになった器を満たそうとするように疑問が次々と浮かび上がる。もう問いかけることもできないやり場のない疑問。それらが思い浮かぶたびに死の実感を強め、空になった器をより意識させる。仮初とも言えないただの逃避はその場しのぎにもならない非情なものだった。

 天音のことを何一つ知らなかったのだな、と落ちていく零は逃避を止めて現実を見る。もっと天音のことが知りたかった、と零の本心は理性を失った野生動物のように騒いでいた。。

『それは恋って言うんだよ』

 母の優しい声が今まで逸らしてきたもの明確に形付けた。

「知っているよ。知っていたから認めたくなかったんだよ」

『零はまだ十六歳。恋をするのは自然なことよ』

「僕にそんな資格ないよ。人生を謳歌するには罪を背負い過ぎた」

『人生を楽しむのに資格なんて要らないわ。そうね。もし、何か人生を楽しむのに必要なものがあるとすれば、それは覚悟と勇気とエゴ。罪なんて関係ない』

「関係ないなんて簡単に言わないでくれよ……」

 頭と心がぐしゃぐしゃになる。

 こんなこと自覚させないでくれ。いっそのこと天音を嫌いになれたら、恨めたら、憎めたら。そうやって醜い心は意識を失うまで脳裏に焼き付けたあの悪魔のような天音の笑顔を必死に思い出す。

 恨め。憎め。怒れ。嫌え。

 それでも。そんな闇に満ちた笑顔でさえも天音は綺麗だった。あの闇の深い、光を失った瞳が、どうしても天音のことを放っておけなくする。知りたい。どうしてそんなに悲しい瞳をしているのか。何が天音をそうさせるのか。

 違う。

 そんなことを考えるためにあの笑顔を思い出したんじゃない。

 零は瞳を完全に閉じて、思考を放棄した。これ以上は止まれなくなると、長年願い続けてきた死に身体を完全に委ねた。

 ずっと焦がれつけてきたじゃないか。

 不幸を振りまくこの体質を道連れにする。それ以外望むことはなかったじゃないか。

 なのに。なのに。なのに。なのに。なのに。

 なんでこんなに胸が騒めくんだ。

 このまま落ちてしまうことの方が楽なのに、どうして本能はあの浮かぶ太陽を求めるんだ。

『世界の理は天秤だ』

 なつかしい声が聞こえた気がした。

『罪と罰。幸と不幸。全ては調和がとれるようにできている。いいか坊主。今がたとえ不幸でもいずれはその傾きを戻そうと同じくらいの幸せがやってくるんだ。だから、泣くな。泣いてたら天秤が錆びて不幸で固まっちまう』

「「じゃあ、待っても幸せが来ないときはどうするの?」」

 幼い頃の零の声と現在の零の声が重なった。

『そんときは自分から動けばいい。心と体が重なれば物事は必ず動きだす。傾きは水平にな』

「「じゃあ、罪と罰は?」」

『同じさ。罪にもいずれ罰は来る。現世で罰がなくとも地獄でな。坊主がそれを罪だと思うなら自然に罰はやってくる。だから、自罰的なことはするなよ。少なくとも幸せを追い求めようとしないうちはな』

「「何で?」」

『俺のエゴさ。罰のためには動けるのに、幸せのためには動けないなんて悲しい生き方だろ。全ての天秤は水平であるべきなんだよ』

 思い出した。

 初めてこの体質のせいで起こった悲劇を目の当たりにして、苦しくなって、あの日気付いたら家を飛び出していて、その時に出会った大きな天秤を持った変なおじさん。

 幼い零に道を示した忘れてはならない大事な人。

 だが、零の前で起こる度重なる不幸が天秤のおじさんの願いを忘れさせ、罪と罰だけが零の中に残り続けた。

「ありがとう。おじさん。おじさんのおかげで幼い頃の俺は前を向いて生きられた」

 零はゆっくりと瞼を開けた。その瞳には白い太陽をはっきりと写し、生者としての息吹が込められたように伸びきった四肢に力が入る。

「母さん。俺、天音にもう一度会いたい。会ってちゃんと天音のことを知りたいんだ」

『そう。行くのね』

「うん」

『零。私はあなたの幸せを誰よりも願ってる』

「知ってるよ。母さんなんだろ?俺が自殺しようとしても死なないように守っていてくれてたのはさ。ありがとう。俺のせいで悪霊に変質して、そのせいでもう姿すら残らなくなってもずっと見守り続けてくれてありがとう」

『良いのよ。私が好きでやったことだから。零も好きなようにしなさい』

「うん」

『いってらっしゃい』

「いってきます」

 母の気配が消えてゆくのを感じる。

 俺はもう大丈夫だから。安心して眠ってくれ。

 そして、零は落ちてゆく世界で右手を太陽に掲げて咆哮した。


 罪を忘れたわけじゃない。

 罰だっていつだって受けるさ。

 だから、今だけは俺の可能性に賭けさせてくれ。





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