第1章 第9話 妖刀

 天音の講義が終わって十五分。零と天音を乗せた車は目的のアパートの前で停止した。アパートは外から見えないよう敷地内全体をシートで隠され、その周りを錠のついた柵で囲われていた。

 零は天音に続いて車から降り、周りを見渡しながら天音の準備を待つ。暗がりと灰色のシートで敷地内の全体を隠している光景は異様に映るが、周りはただの家が建ち並ぶ住宅街。うちの家はこういう風に見られていたのか、と零は眼前の光景を自分の家に重ねていた。

「それじゃあ行こうか」

 元気な天音の声の方に顔を向けると、零は天音の腰に差した見慣れない日本刀に目を奪われた。その鞘は月光に照らされ淡く煌めく桜のような薄桃色で、誰もを魅了する芸術作品のようだった。

「どうしたの?」

 零は美の化身と言える日本刀に心を奪われ一瞬言葉を忘れていた。

「……綺麗な刀だな」

 刀に憑かれた零は刀から目を離さず天音に言葉を返した。

「そうでしょ!けど、この話はシートの中でね。人に見られたら警察沙汰になっちゃうからさ」

「そうだな。悪い」

 零は錠を開ける天音の後に続いてシートの内側に歩を進めた。その瞬間、刀に憑かれていた零は一気に現実に戻される。

 悪寒。身震い。寒気。

 どの言葉も当てはまるが、それすら凌駕する本能的な嫌な予感。

 逃げたい。

 逃げなければならない。

 零はまだシートの外側にある左足に力を込めた。

「このくらいは慣れなきゃダメだよ」

 涼しい顔をした天音が零の左腕を掴んで笑った。

 いつもと変わらない天音の笑顔を見た零は冷や汗を流しながら一息吐く。陰陽師になるならこのくらいは、と零は覚悟を決めて左足をシートの内側に入れた。

「第一関門クリアだね」

「これが普通なのか?」

「私に依頼が来る場所はいつもこんな感じだよ。ヤバいときはもっと凄いけど」

 これより凄い場所があるのか、と零はゾッとする。零も今まで悪霊を見てきたつもりだが、亡者は零の想像をはるかに超えていた。

「ここに肝試しなんて凄いな」

「霊感がなければここはただの事故物件だから。全人類が霊感を持っていたら心霊スポットなんて誰も近づかないし、流行らないよ」

「それはそうだな」

「ちゃっちゃと祓って、安全な肝試しスポットにしちゃおうか」

「俺は何をしてればいいんだ?」

「私の後ろに付いていれば良いよ。祓うのはこれを使うから、しっかり目に焼き付けておいてよね」

 天音はそう言って腰に差している刀に手を当てた。

「それは妖刀なのか?」

「そうだよ。平安時代に作られた最巧の刀『開耶姫《さくやひめ》』。最も美しいとされる女神の名を冠した本物の妖刀なんだ」

「夜によく映えるな」

「『開耶姫』が一番輝くのは満月の夜だと言われているんだ。今日は満月じゃないけど、それでも綺麗でしょ。けど、『開耶姫』が最も美しいと言われる所以は鞘じゃなくて、その純白な刀身からなんだ」

 天音は鞘から刀を引き抜いて、零に上身をよく見せるように柄を横にした。

 その上身は夜空に浮かぶ月のような輝きを放っていた。鞘を誰もを魅了する芸術作品とするならば、刀身は誰もが頭を垂れる神の奇跡。その刃が露わになれば美の化身であった鞘は、有象無象と何も変わらなくなる。

 その上身の輝きに相応しい言葉はこの世に存在しない。鞘と比較しなければ、刀身を称賛することはできなかった。

「人が創ったものなんだよな?」

「信じられないかもしれないけどね」

「神の御業だな」

「だから、『最巧』なんだよ」

 天音は刀の上身を鞘に納めると、脇差を零に手渡した。初めて出会った時に天音が零に見せた妖刀。簡素な木を削って作られた鞘と鋼の刀身。「開耶姫」の後のせいで、非常に見劣りしてしまう。

「そんなに残念そうにしないでよ。これも本物じゃないけど、妖刀なんだからさ」

「本物じゃないって……これはちゃんと使えるのか?」

「それは安心してよ。現代で出回っている妖刀のほとんどは刀工が受け継いできた技術力を持って妖刀を可能な限り再現したものだからさ」

「技術力を持って再現ってどういうことだ?技術力があるなら本物の妖刀が作れるはずだろ?」

「問題は素材の方なんだよね。妖刀は特殊な玉鋼で作られているんだけど、その玉鋼の原料である砂鉄があるのが亡者の巣窟でね。陰陽師の守護無しでは生きて帰れない場所だから、陰陽師の才が廃れていくのと同時に妖刀も作れなくなちゃったんだよ」

「それで再現しかできなくなったのか」

「再現って言ってもそれも凄いんだよ。ほんのわずかな特殊な砂鉄と通常の日本刀の砂鉄を上手く混ぜて妖刀の玉鋼を作るのに三百年の研究期間を経ているんだよ。こうやって妖刀の再現ができるようになってからまだ百年も経っていないじゃないかな」

「そう……なのか」

 零は手に持つ妖刀の重みが増した気がした。刀工たちの血と汗と歴史の結晶。軽々しく見劣りすると思った自分が恥ずかしかった。

「この短刀。名前はなんて言うんだ?」

「無いよ。それは刀工の目指す完成じゃないからね」

「どういうことだ?」

「彼らはどこまでいっても妖刀の刀工。いくら妖刀に似せたものを作ったって、それは妖刀にはなり得ない。本物を知っている彼らはまがい物の妖刀の究極にたどり着いたところで、無銘の妖刀にさえ届かないことを知っているんだよ。知っているけど、刀工としての意義を守るためにまがい物に賭けるしかないのさ」

「なら、天音が手伝えば解決なんじゃないのか?現代の陰陽師なわけだし」

「私もまがい物だから無理だよ。まがい物だけど、陰陽師としてしか生きていく道が無いからやっているだけ。他に道があったら陰陽師なんてやってないよ。それに私は誰かを守りながら戦えるほど強くないしね。だから、零も自分の身は自分で護りなよ」

「え?」

「それじゃあ、行くよ~」

 天音の元気な声がシートの中に響く。見学だけだと思っていた零は、急に実戦を匂わされ背筋を凍らせていた。軽い足取りでコンクリート造りのアパートの階段を上る天音と、対称的に足取りが重い零。圧迫する嫌な予感を感じながら零は、事件のあった一室の扉の前まで来るのだった。

  

 


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