第1章 第7話 悩む心
いつもの一日が終わる。
稽古終わりの零は、救急箱と白のTシャツを持って上半身裸でソファーに腰を下ろした。零は右脇腹を見て顔を顰める。半年前の身体が見る影もない筋肉質になった身体に大きな青あざが一つできていた。
雑念交じりで稽古をしたらこうなることくらい分かっていたのに、と零は自己嫌悪しながら救急箱から軟膏を取り出して、青あざにやさしく塗り込んだ。軽く触れた青あざがズキンと痛む。天音の動きに付いて行けるようになってから久しぶりの青あざは、零にどこか懐かしさを感じさせた。
最初は全く付いて行けなかった稽古。天音が放った悪霊に追い回されながら延々と走らされたり、受け身の練習といって硬い修練場の床に何度も叩きつけられたこともあった。そうやって非道な稽古の時の天音は玩具で遊び子どものように無邪気に笑っていた。それでも天音の技量が高いのもあって今後の稽古に不具合の出る怪我だけは無かった。
あの稽古を五体満足でよく耐えているよな、と今までを振り返ると感慨深くなる。
「うわ、痛そうだね~」
零がTシャツに首を通していると、横からお風呂上がりの天音の声がした。零と似たような白いTシャツに黒いジャージの長ズボンを履いた天音は、首からタオルを掛けて冷蔵庫に一直線に足を運ぶ。冷蔵庫からペットボトルの水を取り出した天音は、美味しそうに水を飲むと零の横に腰を下ろした。
「大したことないよ」
すました顔で零がそう言うと、天音は零の右脇腹を突っついた。
「ぃった!」
零は「痛い」すら碌に言えずに、その衝撃に思わず立ち上がる。天音はその様子を楽しそうに声を上げて笑って見ていた。
「何すんだよ」
笑い続ける天音を睨みつけて零は文句を言う。笑い過ぎて涙目の天音は、睨みつける零に構うことなく気の済むまで笑い続けた。
「すました顔してたからさ、触ってみたくなっちゃった」
「触って見たくなっちゃった、て」
「稽古中に他事を考えていた罰かな」
「それなら仕方ないか」
零は溜め息を吐いてソファーに置いてあった救急箱を仕舞いに戸棚に向かう。しっかりと上下関係を躾けられている零は、これ以上文句を言うことは無かった。
「それで?」
零が救急箱を仕舞う様子を目で追っていた天音が零に言葉を促した。
「何でもない」
「それはないでしょ。昨日の零なら問題なくあの程度の攻撃に反応してたし」
「大丈夫。明日からはまたちゃんとするから」
「大丈夫な人は青あざなんて作らないよ。それに毎回言っているでしょ?零は自分の価値を下げ過ぎ。零が思っているより私の中の君への優先度は高いんだよ」
天音は真っ直ぐに零を見つめた。
零はまたはぐらかすか迷ったが、自分の問題のことでこれ以上天音を拒絶することは勝手が過ぎる気がして止めた。そして零は少し躊躇った後、天音の横に腰を下ろした。
「俺は人生を謳歌する資格がないと思ってる。だから今までずっと罪を意識してから娯楽は排除してきた。けど、今日、走馬灯を見て、天音との生活を楽しんでいることに気付いたんだ。それで……このままで良いのか、ずっと考えてたんだよ」
「私はこのままで良いと思うよ。そもそも私は零に罪を背負う責任はないと思っているしね。それに零は独り立ちできるまで私と一緒にいないといけないんだから、そんなことを考えてもどうしようもないでしょ?」
「それは……そうだけど」
「だったら一つ零に朗報を授けよう!」
「何だよ?」
「稽古を次のステップに進めようと思ってるんだ。その前準備として零には明日、私の仕事に付いて来てもらいま~す。イエーイ!」
天音は拍手をしながら楽しそうに宣言する。そして、天音は立ち上がると、零の前で演じるようにノリノリで話を続けた。
「そ・し・て、その次の日は陰陽師になるための試練を課します!これに合格すれば晴れて零は陰陽師!ここからの生活からも解放されて、憂うことも無くなるでしょう!」
「……イエーイ」
零は空気を読んで、小さな声で天音のノリに乗った。
「え~。何かテンション低くない?」
「いきなりだったから仕方ないだろ」
「ま、いいけどさ。とにかく明日は外に出るから、気を引き締めておいてよ」
そう言い終わると、天音は廊下の方へ歩き出した。
「なあ」
零は珍しく天音を呼び止めた。さっきの天音の言い回しで引っかかった零は、ここで引き留めなければならないという心の警鐘に従った。
「何?」
天音はリビングと廊下の境目で立ち止まる。天音は振り返ることなく、零の言葉を待った。
「誤解してると思うんだ。俺の悩みのこと」
「どういうこと?」
「俺は確かにこのままで良いのかな、とは思っているけど、さっさと解放されたいなんて思ってない。矛盾してるかもしれないけど、天音との関りは無くしたくないんだ。この生活が悩みの種みたいな話をしてしまったけど、距離を置きたいとか、拒絶したいとかそんな話じゃなくて。うまく言葉が纏まらないし、答えも出ていないけど、天音には感謝しているんだ。俺に道を示して、こんな得体のしれないやつを弟子にしてくれて。だから、その、ありがとう」
零は初めて心からの感謝を口にすることが照れくさくて、勇気のいることを知った。
「……もう一つ、稽古中に他事を考えていた罰を思いついたんだ。ねえ、零。今日は零が私の髪を乾かしてよ」
天音は振り返ると、にこやかに笑った。
「ああ」
零は天音のいきなりの提案に驚きはしたが、口に出すことはしなかった。安堵した零は、天音の笑みに笑い返した。
「丁寧にやってよ。私の一番大切にしている場所だからさ」
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