第1章 第6話 変化

 あれから半年が経った。

 季節の流れなど地下に居る零には知りようもないが、カレンダーの数字を見て零は実感なく時の流れを感じていた。

 同居している部屋は、同居を始めたあの日から月日を感じさせないほど綺麗さを保っている。それでもあの日から何一つ変わっていない訳ではない。最低限の生活用品しか置かれていなかった部屋は、調理器具や食器、衣類やクローゼットなど生活感あふれる家のようになっていた。もちろん部屋に仕切りなどはなく、今でも二部屋は共用の場所として使われている。

 零と天音の関係も師と弟子の関係から変わりはない。年頃の青少年達が期待する甘酸っぱい関係に進展する気配は半年の間になかった。だが、気難しい面もあるが一緒に居て過ごしやすい、と零は感じていた。何年かぶりに人と過ごす零は、天音との共同生活に不安があった。ただでさえ女子に免疫がなく、相手は「美」を付けても過言ではない美少女。緊張と不安で同居生活の初日はガチガチだった。だが、そんなものは稽古の過酷さで一瞬にして消え去った。不安と緊張を抱えている余裕すらなく鬼畜な稽古をこなす毎日。身体が慣れる頃には目の前の美少女は人の皮を被った鬼だということに気が付いた。飴と鞭で上手く躾けられていることは零にも実感があったが、それ以前に人として波長が合う気がした。無言の時さえも苦にならないのはそういうことなのだろう。

 と、ここで零はなぜ半年の情景が頭の中を過っているのか疑問に思った。そして思い出す。今まで何をやっていたのかを。

「おーい。起きて~」

 天音の声と頬の痛みで零は現実に引き戻された。零が目を覚ますと天音は屈んでペチペチと軽く零の頬を叩いていた。

 さっきまで天音と組手をしていた零は、天音に絞め技を掛けられた。天音は運動神経がよく、力も異常に強い。零には平均的な女子の筋力は分からないが、それでも記憶の中にある父よりは力があるように感じていた。その天音にがっちりと捕まっていた零は、逃げ出せないまま頸動脈を圧迫されて意識を飛ばしたのだった。

「走馬灯か……」

 零はゆっくり身体を起こして、手足が問題なく動くことを確認する。天音との稽古が始まってから意識を落とすことはよくあることだ。走馬灯を見たのは初めてだが、いずれあるかもしれないな、と零は薄々感じていたので特別驚くことでもなかった。

「ごめん。やり過ぎちゃった」

 汗一つかいていない天音が申し訳なさそうに手を合わせた。

「いつものことだろ。特に気にしてない」

「本当?けど、今日は結構深いところまで落ちてなかった?」

「走馬灯を見た。そんだけだよ」

「そんだけで済ますことじゃないでしょ?」

「昔よく見たから慣れてんだよ」

 身体に力が戻った零は立ち上がり、壁側に置いた水のペットボトルまで一直線に向かう。天音も零の後に続いてペットボトルを取りに行った。

「ふーん。走馬灯ってどんな感じなの?」

「そうだな……過去に浸る感じかな」

「過去、ね。それって良い思い出?」

「色々だよ。けど、悪い記憶は見たことないな」

「そうなんだ。だったら私は最期に何を見るのかな?」

「なんだろうな。それでも一番幸せだったときの記憶が見れると良いんじゃないか?」

「幸せだったときの記憶か~ねえ、なんだと思う?」

「知らないよ」

「つれないなぁ」

「……家族との思い出とかがよくあるって言うよな」

「じゃあ、零が見たのは家族の思い出なんだ?」

 零は天音に言われて一瞬ハッとした。今回の走馬灯には初めて家族が出てこなかったからだ。天音と出会ってから初めて見る走馬灯であったが、それでも家族のことより天音との共同生活が自分の中を占めていることが驚きだった。

「今は天音の話だろ。そういえば天音の家族って見たことないな」

 そんなことを言いたくない零は、話しの矛先をずらした。

「私の家族?みんな死んじゃったよ。お母さんは事故で私が幼稚園の年中くらいだったかな。その他の人は二年前に病気でね」

 天音は躊躇うことなく、日常会話の延長線上のように話した。その言葉はどこか少し冷たく、それでもって清々しいように零には聞こえた。

「……ごめん。触れる話題じゃなかったな」

「気にしなくて良いよ。よくあることだからさ」

「よくあること?」

「そう。呪いみたいなもののだよ」

 天音はそれだけ言って、言葉を閉ざした。これ以上聞いても天音は深くは言わないだろうと、零は天音の表情から感じ取った。

「天音は大丈夫なのか?」

「うーん。そうだな。予備軍ってところかもしれないね。けど、零は大丈夫だと思うよ」

「どうして?」

「何となくかな」

「何だよそれ」

「それで、零は走馬灯で何を見たの?」

 話を逸らしたことに気付いていた天音が、話の軌道を元通りに戻した。天音は零を逃がさないように、あと一歩で鼻と鼻が触れ合うくらいに顔を近づけてニコニコと零の目を離さなかった。

 これ以上ない甘い香りが零を満たす。その芳しい香りは零の思考を絡めとり、はぐらかさせない。

「……いや、共同生活のこと」

 零は天音から目を逸らした。

「へ~。私との共同生活のこと良い思い出にしてくれているんだ」

 零との距離を戻した天音はニヤニヤとしながら気まずくて水を飲む零を見ていた。

「一人でいる時より刺激的だと思ってるよ。自分には不相応なくらいにはさ」

「嬉しいことを言うじゃん。今日の晩御飯は奮発してあげよう!」

 料理担当の天音がご満悦な笑みで高らかに宣言した。

 零と天音は家事の担当を決めて同居生活を行っている。料理は天音、掃除は零ということになっていた。零が稽古から解放されるのは午後九時頃。朝は九時から稽古が開始されるため、零にできる家事が掃除や洗濯くらいしかなかったためこのような振り分けにしていた。買い出しは一ノ瀬家のお手伝いさんがやっており、天音も美容院に行く以外はずっと零と一緒に地下で過ごしていた。

「ほら。さっさと続きをやるぞ」

 零はペットボトルを素早く床に置き、修練場の中央まで駆け足で向かった。

「恥ずかしがらなくても良いのに!」

 少し顔を赤らめた零を見て天音も楽しそうに零の元へ歩いて行った。

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