第1章 第4話 天音の素顔
零は数時間ぶりに解放された。手首、足首の枷を外された零は、座らされていた椅子から立ち上がると、ゆっくりと体を伸ばす。まだ何も解決した訳ではないが、身体少し軽くなった気がした。
「あ~疲れた。あ、そうだ、何か飲む?」
天音は床に座り込むと、零に砕けた口調で話しかけた。そのさっきまでの天音のイメージから離れた砕けた口調に零は、意外な顔で天音を見た。
「……お茶でお願いします」
さっきまでの口調から一転したことが気になりはしたが、零はあえて触れずに天音の言葉に答えた。
「オッケー。お茶ね」
天音は軽い口調で立ち上がり、ホワイトボードを引っ張って部屋から出ていった。
零は天音が部屋から出て行く様子を目で追いながら、椅子に座り直す。手持ち無沙汰の零は何もないこの部屋を見渡して、慣れない光景を目に焼き付けていた。幽霊がいないだけでこんなに静かなんだ、とこの部屋を出てしまえば二度と戻ってこない不自然な光景をじっくりと味わう。
最初は幽霊が怖かった。零の周りにいる幽霊はいつも黒い
「本当に静かだ……」
こんなに静かなのは生まれて初めてかもしれない、と零はこの静かな空間に身をゆだねた。
目をつぶり、何もない静寂に一心に浸る。
その一時から戻されたのは天音が悪戯心でよく冷えたペットボトルを気づかれないように零の首筋に押し付けたときだった。
「わぁっ!」
椅子から飛び跳ねた零はその勢いのまま後ろを振り返る。振り返ると、天音が悪戯な笑みを浮かべて二本のペットボトルを持っていた。
「驚き過ぎだよ。緑茶で良かった?」
「……ありがとうございます」
零は天音に文句を言うこともなくペットボトルを受け取った。零は天音の悪戯に関心が無かった訳ではなかったが、それよりも零の意識が天音の口調に向いていたからだった。
「そんなに私の言葉遣いが気になる?」
天音はペットボトルの蓋を開けて、一口お茶を飲んだ。
天音の口調が気になっていたことがバレた零は驚いて顔を固まらせた。
「あんなに顔に出てたら誰でも分かるよ」
「その、すいません……」
「なんで謝るの?気になったことは聞けば良いじゃん!」
天音は不思議そうな顔で零の顔を覗き込んだ。
「……じゃあ聞きますけど、何でさっきと口調が違うんですか?」
零は天音との距離感が掴めないまま恐る恐る質問した。十何年かぶり家族以外で、それも異性と会話をするせいか零はどうしても探り探りの会話になってしまう。
「もっと堂々としてればいいのに。……まあ、今は仕方がないか。質問に答えるとね、さっきは外用の言葉遣いだからだよ。あの言葉遣いをしてると受けが良いんだ。こっちとしては面倒だし、疲れるし、気を使うしで大変だけどね。だから、こっちが素なの。零とは長い付き合いになるだろうし、外用の言葉遣いをし続ける必要はないかなって。それに、もう身内でしょ?」
「身内?」
「そうだよ。私にさっき弟子入りしたでしょ?そうしたらもう身内みたいなものじゃん。だから、零はこっちの私に早く慣れてよ」
「頑張ります……」
零は自身が拉致されたときの天音の大胆さと強引さを思い出す。確かにさっきまでのお淑やかな感じよりも、今の元気で軽い感じの方が天音のイメージに合っていた。身内というよく分からない言葉も出てきたが、天音が言うならそうなのだろう、と陰陽師の仕来りは分からない零はとりあえず納得することにした。
「一条さんの弟子になるってことは、一条家の当主?みたいな人に挨拶をしに行ったりするんですか?」
身内という言葉について考えていた零は、自分の身なりを思い出して念のため確認する。零の恰好はお世辞にも人前に出て良いと言える恰好ではなかった。長いわけではないが、不格好に短く切られた黒髪に、上下長袖のジャージ。とても格式の高い家の挨拶ができる恰好ではない。
だが、天音の反応は零の予想に反して、頭に疑問符を浮かべていた。
「挨拶?」
「なんか陰陽師って仕来りと独自のルールとかがあるようなイメージがあったから、弟子入りをするときに当主みたいな人に許可をもらう必要があるのかなって思って……」
「あ~。そういうことね。確かに陰陽師の世界では弟子入りのために家に入ったら挨拶をする仕来りは残ってるよ。けど、零は私に弟子入りしたから、その必要はないよ」
「どうしてですか?」
「だって、私が当主だし」
「えっ……」
「あれ?言ってなかったけ?」
「聞いてないです」
「ついでに言うと私が陰陽師のトップだから」
「えーーー」
今日一番の大声が零から漏れた。零は目を丸くして、天音のことをじっと見る。この華奢な同年代の少女が陰陽師の世界の頂点なのか、と零はにわかには信じられない気持ちでいっぱいだった。
「だから、挨拶なんて必要ないって訳。分かった?」
「はい……」
「そうだ!今後のことを話す前に絶対に守ってもらうルールを言わないとね」
「ルール、ですか?」
さっきまで頭が追い付いていなかった零は、ルールと聞いて真剣な表情で天音に向き合った。陰陽師の世界はまだよく分からないが、生き抜くためには必要なものだろう、と天音の言葉を聞き洩らさないように集中する。
「ルール其の一。堂々とすること」
「ルール其の二。敬語を使わない」
「ルール其の三。私のことは『名前』で呼ぶこと」
「分かった?」
正直拍子抜けだった。
思っていたのと違う、とはまさにこのことだろう。
「へ?」
「へ、じゃないよ。分かった?」
「いや、まあ、はい……」
「もごもごしない!」
「はい!」
何やってんだろう。零は純粋にそう思った。
「今度、私の仕事に付いて来てもらうから。その時までには体に慣れさせておいてね」
そう言って天音は一歩、零に近づく。
「真っ当に死にたいなら、ね」
天音のことが一瞬、死を宣告しにきた天使に見えた。そのくらい天音の笑顔は肝が冷えるような本能的な怖さを感じさせ、天音の囁き声はやさしくて綺麗だった。
「なんちゃって」
天音は零を揶揄うように笑った。だが、零はそれだけではない気がした。
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