第1章 プロローグ 最後の依頼②

 静粛な教室には冷房の動作音だけが流れている。

 優友は目の前で起こった事象に頭が追い付かないまま、驚きと困惑を含んだ顔で左手から血を流す青年を見ていた。

 青年は慣れた手つきでポケットから取り出した包帯で簡単に左手の傷口を覆い、黒い手袋を着け直す。痛みすら顔に出さない青年はどこか不気味で怖かった。

「鳴海優友……だっけ?君の名前」

 ナイフから血を拭き取る青年は、腰を抜かして動けない優友の元に近づいていく。

「そうですけど……」

 口封じに殺されるのか、と今すぐにでも逃げ出したい優友だったが、腰が抜けているせいで強張った表情で青年のこと目で追うことしかできなかった。

「こいつのこと保健室に運びたいんけど先生はいるか?」

 ナイフをポケットに仕舞った青年は、さっきのことがまるで無かったように平然と優友に声をかけた。

 何をされるのか怯えていた優友は、あまりにもあっけらかんとしたこの調子に拍子抜けしてしまい、一瞬言葉を忘れてしまった。

「あ、保健室は……あれ?」

 青年の言葉を理解した優友は、あまりの光景に忘れかけていた勇太に目を落とした。蘇ってくる心配を胸に勇太を見た優友は、その違和感に言葉を止める。

 勇太の服装がさっき見た時と違っていたのだった。

 土の付いた野球のユニフォームだった勇太の服装が、白いシャツを羽織ったジーンズ姿のシンプルな私服に変わっていた。

「どうした?」

「いや、あの、勇太の服が変わっているなと……」

「それは『堕天』がそいつから離れたからだ。心霊スポットにはその格好で行ってたんだろうな」

「けど、なんで―――」

「そのことも後で説明してやるから。それで保健室に先生はいるのか?」

 青年は気だるげそうな声で優友の言葉を遮り、話を本題に戻した。

「すいません。この時間ならいると思います」

「なら、さっさと運ぶか。案内は頼んだぞ」

 青年は勇太を背中に背負い、優友に目で先頭に立つように促した。だが、優友はすぐに目を逸らし、気まずそうな顔で冷や汗を垂らしていた。

「あの、腰が抜けて、立てなくて……」

 青年はめんどくさそうな大きな溜め息を零した。

「保健室はどこだ?」

「一階の土間のすぐ横です」

「分かった。俺が戻るまで絶対にそこから動くなよ」

「はい……」

 動きたくとも動けません、と心の中でツッコミながら背負われている勇太の背中を見送った。

 それから青年が戻ってきたのは三十分程経ってからで、そのころには優友は歩けるくらいに回復していた。

「遅かったですね」

 優友は教室に戻ってきた零青年に恐る恐る声を掛けた。この三十分の中で冷静になれた優友は青年に礼を言ってないことを思い出し、礼を言うタイミングを作ることを決めていた。だが、青年を見ると苦手意識なのかどうしてもぎこちなさが出てしまう。

「先生に捕まっていたんだよ。夏休み明けからこの学校に転入することになってるからさ」

 青年は教室の中を一瞥すると近くの椅子に跨り、腕を椅子の背もたれに置いた。

「そうなんですね……」

 青年の事務的な会話に優友は、戸惑いながら表情や仕草から感情を読み取ろうとしたが、何も掴めなかった。強いて言うなら怒っているのか、というのが優友の所見だった。

「俺は国見零。陰陽師だ」

「陰陽師?」

 優友は戸惑ったような声で零に聞き返した。

「ああ。胡散臭いやつじゃないぞ。ちゃんと本物のな」

「はぁ」

 大事なことだ、と強調して言う零に、優友は気の抜けた声で相槌を打つ。勇太の件で何かを祓ったところは見たが、零の厨二感漂うイタい風貌が言葉の説得力を半減させていた。

「今までに幽霊を見たことはあるか?」

「無いですけど……」

「そうか。やっぱり自覚もないのか」

「何がですか?」

 優友は一人何かを納得する零に困惑した。あの緊張感から何を聞かれるかと思ったら急な幽霊の話。陰陽師と名乗るからには当然の話の運びなのかもしれないが、感情を見せないそのポーカーフェイスから出される意味深な話は余計に零という人物を掴めなくした。

「これから話すのは優友の体質の話だ」

「体質?」

「特殊霊媒体質。霊感を持っている人間が幽霊に干渉できてしまう体質のことだ。これは先天的に持っていたり、後天的に発現したり様々ある。けど、霊感を持っているなら誰でもって訳じゃない。これは本当に極めて稀なものなんだ」

「僕は霊感なんて―――」

「窓を見ろ」

 零は優友が開いたままにしていた窓を目で指定するように指した。優友は零に渋々従うように窓を見る。窓に意識を向けたからか、いつもの蝉の鳴き声が一段と大きくなった気がした。

「何が聞こえる?」

「蝉の鳴き声ですけど」

「不思議だとは思わないか?ここは三階の教室。それに校舎の下に樹木が植えられている訳でもない。それなのにも関わらず、蝉の鳴き声がこんなにも間近に聞こえる」

「これが蝉の幽霊だとも言うんですか?それはないですよ。僕の友人もクラスメイトも他のクラスの人も全員この蝉の鳴き声を聞いているんですから。確かに他のクラスの子から僕がいるクラスは毎年夏になると蝉の声が五月蠅いってよく言われますよ。でも、聞いているのは僕だけじゃない。それともみんなも霊感持ちってことですか?」

 優友は馬鹿々々しいと思いながら反論した。真面目に話を聞いていたら話された内容はまるで厨二病のようなイタい設定の話。さらに、その根拠がみんなも聞こえている蝉の声だった。実際に祓っていたし本物の陰陽師なら聞く価値はあるか、と一瞬は思ったが、こんな根拠のないことを言われては嘘っぽく聞こえてしまう。もしかしたら、この後に変な数珠でも買わされるんじゃないか、と不安すら出てきていた。

「『霊魄同位』それが優友の体質の名前だ。簡単に言えば幽霊を実体化させる体質だ。優友は認識した幽霊を実体化させて、霊感を持っていない人々にも見えるようにしてしまう。それも無意識にな。だから、霊体の蝉の声もクラスメイトに聞こえるし、幽霊を見たとしても実体化させてしまうからそれが幽霊だとは気づかない。周りからも不審な目で見られないのさ」

「……何ですか、それ。そんなの証明の仕様がないじゃないですか」

「勇太、だっけ。あいつの服装が変わったって言ってたよな。本来、堕天に憑かれた人間は霊体化するはずなんだよ。もちろん、その時の服装でな。優友が勇太のことを頭に思い浮かべた時、野球のことを考えなかったか?教室で会った時なら、ここで会うなら制服、みたいな無意識の固定概念がなかったか?」

 優友は言葉に詰まった。勇太の服装が変わったところを見てしまった以上、そのことは否定のしようのない事実だった。

「戸惑うことはしょうがない。けど、勘違いはしないでくれ。体質は基本的には生まれ持ってしまったもの。普通から外れているからって自分を責めたり、気持ち悪いと思ってほしくないんだ。ただ、自分自身がそれを認識しているだけでいいんだ」

 零は初めて笑顔を見せた。優友は何となくだが、それが自分を励ますための笑顔のような気がした。

「気を付けてはみます」

「今はそれでいい」

 照れくさそうに視線を逸らした優友を見て零は、安心したように優しく笑った。そして、ひと段落つけた零はすぐに真剣な表情になる。

「優友。俺がお前に会いに来たのは優友に体質のことを自覚してほしかったからじゃないんだ。今、優友のその体質が狙われている。俺はそれを阻止することを依頼されて優友に会いに来た」

「狙われている?依頼?」

 真剣な零の口調に優友は逸らしていた視線を零に戻した。

「そうだ。一条天音は知り合いだろ?」

「天音ちゃんが関係しているんですか?」

 優友は「一条天音」の名前を出され思わず零に詰め寄った。

 一条天音は優友の幼馴染だ。幼稚園の頃から今までずっと同じ学校に通ってきたが、高校の入学式の五日後から休学扱いになっていた。天音は大人しい女の子だった。そのため何か事件に巻き込まれたんじゃないか、と零から名前を出され、優友は思わず詰め寄ってしまった。

「まあな。依頼主は天音だからな」

「え?」

「この件には天音が深く関わっている。おそらく優友が知らない天音がな。どうする優友。狙われるお前には知る権利がある。けど、それはお前の想像している以上に酷な事実だ。それでも優友が望むのなら俺は全てを話す」

「お願いします。消えた天音ちゃんの行方が掴めるなら僕はなんだって受け止めます」

 零は軽く笑って優友を見た。なんとなくだが零は予感していた。この情に厚い優友なら天音の選択を受け入れられるのではないか、と。


 一条天音という陰陽師が目指した結末を。



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