【第1話 8】

「あ~、クソ。何者なんだよ、あいつ……」


 河川敷で出会った水木華を気にしつつ、団地の階段を上る。

 すると、コンコンコン――。

 包丁で何かを刻む、まな板の音が部屋から聞こえた。


 咄嗟にドアノブを回す。案の定、開いていた。ガチャ。


「ダイちゃん、お帰り。今夜はカレーよ」

「ただいま。じゃあ、ハチミツで甘口に――って、なんでいんだよ!」


 ニンジンを切っていたのは亀岡美春かめおかみはるだ。


 表参道で彼女とすれ違えば、その美貌と色気によって、デート中の彼氏は恋人を置き去りに声をかけ、彼女から右ストレートをプレゼントされる。


 つまり、魔性という言葉が似合う、男をホイホイする美魔女だ。

 加えて、ハイブランドなワンピースと黒縁メガネの相容れないギャップが、街往くおじさまたちをも虜にする。その正体は――、


「私はあなたの世話人かつ代理人よ。この街を紹介し、家も見つけ、高校の転学手続きもしてあげた恩人に、その言い方はないでしょ?」

「その節は大変お世話になりました。で、来た目的はなんだよ」

「様子を見にきたの。天国の美冬があなたを心配していそうだし、男の一人暮らしは悪さが付き物だし」


「何もないから。学校もバイトもボチボチやってるから、とっとと帰れよ」

「それなら私も安心だったわ。あのPCを見るまでは――」


 亀岡は刃先を、居間のちゃぶ台のノートPCへ向ける。


「あなたの留守中に中身を見せてもらった。そして、あるものを見つけた」


 その一言は男のシャツの汗を一気に冷やした。


「み、見たのか。人のパソコンを?」

「ええ、見たわ。そして、見つけた、悪性ウイルスを。でも、あのパソコンは私自らが買い、ウイルス対策を施した。なのに、ウイルス……なぜ?」

「そ、それはたぶん、迷惑メールを間違えて――」


 目があっちにこっちに泳いでいく。一方、包丁を構える亀岡のキツネ目はレンズ越しでも真実を見通す探偵のよう凛とし、犯人の動揺を突き刺す。


「ダイちゃんはスマホを捨ててガラケー。その理由は人間関係を断捨離したからでしょ。PCメールを作った目的はなに? SNSに登録するため? 新しい友達ができたの? 人間不信なあなたが?」

「いやあ……色々だよ。転学すると、色々あんだよ」


「色々とは、何?」

「い、言えるかよ。そんなこと」

「なら私が代わりに言いましょう。中島、いいえ四十万大輔君。あなたは昨日深夜にエッチなサイトを閲覧したでしょ! そして、あろうことか、違法ダウンロードを敢行し、私が買った大事なPCをウイルス感染させたのよッ!」


 真実を突かれ、言葉が詰まる。


「しょ、証拠は? そんなの妄想だっ!」


 目の前にいる女は、まるで犯人を罠にかけた名探偵そのものだ。


「フフフ、言うと思った。逃げ場のない犯人は必ず『証拠を出せ』って言う。これ、ミステリーのお約束ね。ほら、私のスマホを見なさい」


 探偵は焦る犯人にとある動画を見せた。


「な、なんだと?!」大輔は驚愕した。


 その動画にはそこにはサイト閲覧履歴にダウンロード動画、感染ウイルスをバスターしている様子が画面内に収められていたのだ。


 ガクン、と犯人の膝が折れる。


「出来心だったんです……。金曜日はお楽しみの日なんです……」

「まったく、男子高校生は頭の中がエロ畑ね。最近のウイルスは遅効性が多くて、気付いたときには虫歯のように手遅れよ。サイトを開くときは絶対にフィルターをかける。これ、社会の常識です!」

「はい……すみませんでした!」


 大輔のPCには高性能のウイルス対策ソフトがインストールされているが、OFFにすることで男子の楽園にアクセスできる。彼は誘惑に負け、バイトを頑張った自分へのご褒美に、こっそり楽園で果実を摘んでいた。


「それに、違法ダウンロードは犯罪よ。違法サイトでもダメよ!」

「わかってはいるけどさ……。男子高校生のエロは生理現象なんだよ」

「だったら私を、つ・か・い・な・さい☆」


 と、ランウェイを歩くモデルのステップで彼の頬から胸を指先でなぞる。


「気持ち悪いって! 熟女はボールだわ!」


 ゴロゴロゴロ――その瞬間、なぜか蛍光灯が点滅し始めた。


「なんですって、熟女はボール? ハッ! 女の魅力もわからないガキが! 女の子を抱きしめたこともないアニオタは、こっちが願い下げよ!」


「な、なくて悪いかよ! まだ17だし、本気出していないだけだし」

「じゃあ、その本気をいつ出すのよ? 明日? 来月? 来世? 前世で使い果たしただけでしょ?」


「好きな子ができたら本気出すし! それより、早くカレー作れよ。昼食ってないから腹が減ってんだよ」

「私はあなたのお母さんではありませ~ん♪ 野菜は切ったから、あとは自分で作ってちょうだい、な!」


 と、白エプロンを脱ぎ捨て、包丁も投げつける。


 ゴツッ! 「あっ、ぶねぇよォ! 何しに来たんだ、ほんと……」


「そんなの決まってるじゃない。仕事をサボるためよ♪」


 亀岡は彼にバトンタッチし、居間のPCから動画配信サイトにログインして大好きな海外ドラマを見始めた。本当にサボりに来たようだ。


 ――この人、ダメな大人だ……。


 壁に刺さった包丁を抜きながら大輔は思った。

 そして、カレーを作り始めるその背中を、料理をする子供を心配そうに見守る母親のように、亀岡はチラチラと彼を覗いた。


 大輔の母、美冬は彼が10歳のとき病死した。それに伴って父の竜哉たつやと代々木から北千住の父方の実家に引っ越した。


 竜哉は東京地検特別捜査部の敏腕検事として多くの事件を担当していたため、家に帰ることは月一度あるかの多忙さで、四十万家の祖父母と彼の事務官であった亀岡が大輔の面倒を看てきた。


 5年前に竜哉が検事を辞め、弁護士として日本最大手の大江戸総合法律事務所に移籍した際も、あの騒動後も、母と子のような関係は続いた。


『四十万の名を捨てるとは、どういうつもりだ、大輔ッ!』

『子供を裏切ったくせに父親面か? 俺は母さんの名前で生きていくと決めたんだよ、クソったれッ!』

『ちょっと、二人とも落ち着いて!』


 父と子は水と油になった。それでも亀岡は大輔を見捨てなかった。


『お姉ちゃん。私になんかあったら、あの子をよろしく、ね』


 その理由は亡き妹の子供だから。両親が離婚して互いの苗字が変わっても、離れ離れに住んでも、流れるこの血は妹と一緒だから――。


 


 パク。もぐもぐ――あ、まっ! 


 亀岡にとって顎が引くほどケーキのような甘さだが、作った当人はパクパクとスプーンが進んでいる。


 無我夢中で食べる旺盛さ、丸みを帯びた新月眉とぱっちり目元が緩めば、どこか懐かしい顔が浮かんでくる。


「あら?」本体がないことに気付いた。「――あのメガネは?」

「あ、そうだった。もう一個、ちょうだい?」


 大輔が両手を差し出すも、バチッと叩かれる。けっこう強め。


「無理ね。伊達メガネはもうない。で、どうしたの?」


 実は失くした、と誤魔化す選択肢もあるけれども、相手は敏腕弁護士をサポートする右腕だ。法曹界では《法廷のクリスティー》と恐れられ、相手側がひた隠しする真実を見抜く名探偵でもある。


「実は――」勝てる見込みはなく、傷が浅いうちに自供する。


 河川敷の件、水木華とのやりとりを聞いた亀岡は、ニッコリ微笑んだ。


「ウフフ……それは恋ね♪」

「いや、違う!」

「もぉ、照れちゃってぇ~。このこのぉ~」

「あ~、うぜぇ!」


 亀岡は話を戻す。「監督、やったらいいじゃない。パンツのお礼に」


「パンツは関係ねぇ。――簡単に言うなよ。バレたらどうすんだ」

「どのみちその子にバレたじゃない。その子を味方にしないと学校に正体が広まって、残りの2年間はぼっち道一直線よ」


「そう、だけどさ……」

「怖い気持ちはわかるけど、明日は彼女に会うこと。放置プレーはダメよ」


 ――すでに放置したんだよな……。


 少年は腑に落ちないけれども、大人の意見を渋々受け入れることにした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

中島、監督しようぜ だいふく丸 @daifuku0

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ