【第1話 7】

 新河岸川の流れは、心電図のよう穏やかな波を打っていた。

 草木を揺らす、涼しげなそよ風が彼の目元に触れた。ひどく冷たい。


 ――え、涙? なんで……?


 知らないうちに泣いていた。急に恥ずかしくなった。


 17歳、高校生、一人、泣く。

 頭に浮かんだ単語は彼の頬を真っ赤にさせる。


 情けねぇって、ゴシゴシと強めに目元をこすった。


 そのとき――「――四十万大輔、見っけ♪」


 朗らかな女の声がした。さも、かくれんぼの鬼のような声だ。

 後ろを振り向くと、土手上で自分を見下ろして立つ、たんぽぽのような、無邪気に笑う女子高校生がいた。


 気が強そうな、吊り上がった大きな目と口元とは真逆の、赤子のような白肌に薄紅色の頬で、柔らかそうな薄黄色の髪がふんわり風と戯れて、肩を優しく愛でている。まるで彼女の性格を現しているように。


「あの……どちらさま――」


 制服からして青羽高校の生徒、らしい。でも、彼には見覚えがない。


 そのとき、ピュ~~、ふわふわ~~、突風がたんぽぽの白い綿毛を飛ばす。


 カーッッッ! 急激に少女の顔が紅潮し、浮いたスカートをはたき落とす。


 ギロリ、彼を睨み刺し、「見たわね?」と問うた。

 彼の位置は絶好の花見スポットだ。


「いやいや、事故でしょ! 今の事故でしょ!」

「でも、見た、でしょ?」

「いやいやいやいや、事故だから。絶対に事故だから! 俺、ここで寝そべっていただけだし、君のこと知らないし――てか、なんで俺の名前……!」


 大輔はハッとした。パンチラパニックで一瞬記憶が飛ぶも、彼女は本名を知っていた。それも、自分と同じ制服だ――。


 真っ赤に憤怒する少女は彼の前へ立ち、上目遣いで問い詰める。


「ねえ、パンツ見たの? 見なかったの?」

「ああ、見た。見たよ!」事実だから認めるしかなかった。「――でも、見えたんだよ。見たくて見たわけじゃない!」


 よくよく見れば美形な顔立ちで、160㎝? 彼の肩ほどの身長だ。

 ただし、胸元はとても寂しい。クラスのぽっちゃり男子よりも劣る。


「フ~ん。認めるんだぁ」と、私の勝ちだと言わんばかりに右拳を突き出し、「女子の秘密を見た罰として、責任をとりなさい!」


 と、唐突な宣告だ。「はぁ? 責任!?」


 驚いたあまり、大切なメガネがずれる。少女の大きな声に通りかかった大学生風のカップルがざわつく。


「責任って……あいつ、サイテーだな。しかも、高校生じゃん」 


 大人の事情が絡みそうな話だと思われているようだ。

 今後の生活に支障が及ぶかもしれないと察知した中島は、ひとまず傍若無人な少女を説得することにした。


「どこの誰かは存じませんが、こういうのは止めません? 冤罪ですよ?」


 少女は腕を組み、鼻をツンとさせ、「責任とったらね」と声を張る。

 カップルの女が続く、「ゲス野郎……死ね!」と。

 予期せぬ風評被害は回避しなくてはならない。


「あの……なんなんです? いきなり現れて責任とれ? 頭大丈夫ですか? 変なもの食べたんですか? そうですよ、変なもの食べたんですよ」


 説明口調は周囲への誤解を解くためだ。事情を察したのか、カップルは静かに場から去るも、一歩も引かない少女は黄髪をなびかせる。


「私は二年A組の水木華みずきはなよ。単刀直入にお願いするけど、明日の日曜日、9時にここに来てくれない?」


「だから、なんで? 本当に頭大丈夫ですか?」

「ええ、よく言われる。でも、そんなことはどうでもいい。私はあなたの正体を知っている。殺人スライディング騒動の当事者、四十万大輔しじまだいすけだと」

「だから――まさか、お前か? 山寺と北風に俺のことをバラしたのは?」


 大きな瞳が細くなる。「タイヨー? ユズ? さぁ、なんのことか……。それより、正体をバラされたくなければ言う通りにしなさい」


 話がまったく噛み合わない。山寺や北風よりタチが悪いようだ。

 キレたい衝動を押えつつ、彼は彼女の素性を探ることにした。

 なにせ正体を知っている。今後の危険人物だ。


「わかった。話は聞く。まずは順序通り話そう。なんで俺を知っているの?」


 水木の表情が和らいだ。「内緒♪」


 イラっとするも、「じゃあ、なぜ俺がここにいるってわかった?」


「それも内緒♪」


 ブチブチ、イライラが募り、口調が硬くなる。


「じゃあ、明日は、何が、あるので、しょうか?」


 水木は軽い足取りで土手から川沿いの柵へ移ると、くるりと彼に振り向き、力強く親指を立てた。「――中島なかしま、監督しようぜ♪」


「はあ?! 監督ぅ?!」

「だぁかぁらぁ」目と鼻の先まで近づき、彼の大切なメガネを奪う。


「あなたには野球の才能がある。だから、学童チームの監督になってほしいのよ」

「なんだ、それ……」と頭が痛くなる。

「詳しい話は明日話すわ。だから、とりあえず、明日9時にここに来て」


 有無を言わせない口振りに、悪い大輔が顔を出した。


「お前さ、何様だよ。いきなり登場して、偉そうに人をハメて、謝りもせずに、今度は『明日9時に来い』だぁ? 監督しろだぁ? ざっけんな、マジで! バーカ!」


 普段怒り慣れていないせいか、モブチンピラのような啖呵だ。

 彼自身も実感しており、耳が赤くなり、たまらず少女から視線をそらす。

 にもかかわらず、なんと、水木の目からは涙がポツリ――。


「ぐすん……。ひどい、ひどすぎるよ……。ねえ、私が全部悪いっていうの? ねぇ、ダイちゃん」


「ダイちゃん? ――って、泣くことはなくね?」


 ハッ! 彼はまたも気付く。背中に無数の槍が刺さっていることに。


 怖くて振り向けない。なぜなら、水木の泣き声に人が集まっているのだ。

 そして聞こえてくる、「ゲス野郎、死ね!」という女子の声を――。


「ひどいよ、あんまりだよ……ぐすん」

「俺のセリフだわ!」


 不幸なことに、水木の嘘泣きは女優ばりに巧かった。

 ドラマでゲス彼氏との別れ話に泣き始める可哀そうなヒロインそのもの。

 こうなればゲスが取る行動は一つ――。


「うわ! 逃げたぞ!」


 ローファーでも、スクールバックを持っていても関係がない。

 一心不乱に彼は逃げた。恥だろうが、逃げるが勝ちだ。


 新荒川大橋から青羽駅まで徒歩15分はかかる道を、靴底からのアスファルトの痛みに耐えながら、五分で駆け走った。


 呼吸が落ち着き、パンパンに張ったふくらはぎを引きずりながら、途中の本屋の窓ガラスで思い出す。「――あれ? メガネ……ハッ!」


 中島の本体は水木に奪われたままなのだ。

 相棒を失った彼は、ひとまずトボトボと自宅へ帰ったのだった。




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