【第1話 6】

 ――生徒だから、か……。


 正門を出て数秒、商店街をふわふわした気持ちで歩く中島は、担任との会話を思い返していた。


 白川はどんな生徒にも慕われるいい教師だ。彼もそう思い、気遣いには感謝している。けれども、頭の隅から悪魔の囁きが聞こえてくる。


『それが仕事だからだ。保身のため。大人なんだから当たり前だろう?』


 もしも、ただの大人と子供なら、先生は――。


 先生と生徒の関係は特別だ。教える側と教えられる側。赤の他人でも教え子の失敗を親のように諭し、相談に乗る白川はこの関係を大切にしている。


 だからこそ、本音を言うよりも、生徒に合わせて心に響く言葉を考える。

 それが教育者として正しいのか、間違いかは高校生の彼にはわからない。

 だけど、その気持ちは痛いほど感じていた。

 

 ――教師って……キャッチャーと同じだよな。


 横を通り過ぎる、自転車に乗った野球少年たちに白川の苦労を重ねた。

 小中高と中島は捕手をやり。捕手の楽しさと気苦労を思い知った。

 リトルリーグ時代――ある練習試合の五回表、二死満塁の場面で、


『ダイ、ここはどんっとインコースだ! 直球勝負だ!』


 と、投手は主張した。それに反して捕手は首を振る。


『ダメだろ! 相手は4番だし、1点あげていいから、ここは――』

『俺を信じられないのか? キャッチャーならピッチャーを信じろよ!』


 投手は力強くいった。捕手はしぶしぶ従うしかない。


『わかったよ。その代わり、厳しく投げろよ』


 そして――、カキーン! 


 快音とともにインハイへの甘いストレートは右中間へ飛んで行った。

 試合後、普段は優しい女性監督が配球の理由を尋ねた。


大塚おおつかくん。どうしてインコースへ投げたの?』

『ダイが大丈夫って言ったから……』

『えぇーっ!?』

 

 そう、投手はうそをついたのだ。


四十万しじまくん。あの場面はアウトコースって、前に言ったよ、ね?』


 打ち取れば投手の手柄、打たれれば捕手が責任を負う――。


 野球は、投手がいい球を投げてくれないと勝利が遠くなる。だからこそ、捕手は投手の性格の長所と短所を把握し、いい球を投げられるよう気遣う。


 その点、教師も同じだ。生徒という投手を諭し、伸ばし、育てる。

 褒めたり、叱ったり、嬉しいときは共に騒ぎ、悲しいときは共に泣く。


 ――寄り添うって面倒だよな。でも、あの人はいい先生……なのかな?


 彼は迷っていた。担任を信じるかどうかを――。


 



 中島は荒川桜堤防緑地に来ていた。

 バイトがあると言ったのは嘘だ。土日は入れていない。


 ここは埼玉県から荒川と、隅田川へ合流していく新河岸川が流れ、この二つの川が挟む緑豊かな土手の下、荒川河川敷には数面の野球グラウンドがある。


 土手は、春は桜並木の花見スポットと知られ、夏はカラフルな花火が上がり、秋は鮮やかな紅葉で彩る。だが、冬は極寒地帯。犬ですら散歩を嫌う。


 桜木の下、新河岸川沿いの土手に寝そべり、空を見上げた。

 陽射しから逸れた真っ昼間の水色に、わたあめのような雲が漂っている。


 3月は桜が宙を舞っていた。花びらが心の大きな穴を塞いでくれたけれど、月が替わると花は散り、薄化粧が剥がれた樹木は寂しさを感じさせる。


 彼以外にも悩み人が周りにちらほらいるので、寂しくはなかった。

 他方で、川の向かいはテニスコート。大学生だろうか、若い男女の楽しそうな声が届く。そして、心の穴が何かを訴えてくる。


『バイトが落ち着いたら、テキトーに部活でもやればいい』


 教師の言葉が過った。再び空を見上げる。


 ――今は……バイトだな。土日もいれっか……日曜は休みたいけど。


 体育会系の血か、暇になれば身体が疼き、汗を求めたくなる。

 だが、彼はそこから距離を置きたかった。


『新しい友達を作ればいいさ』


 今の彼にとって友達も大人も、ただの敵でしかない。




 去年、9月――。


 新学期が始まった頃、校内を歩く彼の背中には多くの言葉が刺さっていた。


『ねぇ、四十万ってあの子でしょう? ニュースになった』

『よく学校来られるよな。こんだけ騒ぎになってんのに』

夕月ゆづき、あいつってサイコなんでしょ? 部でもヤバい奴なんでしょ?』

『あ、えっと……。そうだったかも……』


 大会前、甲子園優勝を目指す野球部壮行会で、彼は学校のヒーローだった。

『ダイ、ホームラン打てよ!』『四十万君、絶対応援に行くから!』


 普通科で野球部に入ることは簡単だが、名門と呼ばれる部内でレギュラーになることは至難の業だ。スポーツ科の授業は午前中のみで、午後は専用グラウンドで練習だ。授業時間の違いが練習時間に直結するからだ。


 それでも彼は一学年の普通科で、スポーツ科の先輩捕手からマスクを奪い、甲子園の切符を勝ち取った。学校中が部の新ヒーローを褒め称えた。


『俺らはスタンドで応援すっから! ダイ、俺らの分まで頑張れよ!』

『四十万君、すっかり一年生の代表だね! 私もスタンドで応援するよ!』


 同じ一年生の仲間や女子マネージャーも、彼が誇らしかった。

 彼もまた、学校の期待を背負うことを誇らしく思っていた。

 しかし、あの騒動を契機に、彼は天界から下界へと転がり堕ちてしまう。



『――あのプレーは指導不足だったかもしれない』


 試合後のインタビューで、監督は報道陣の問いにそう答えた。

 新聞記者が続ける。『ということは、監督の指示ではないと?』


『あんな危険なプレーを指示したことはありませんよ』


 ネットサイトの記者が憔悴しきる選手にマイクの矛先を変えた。


『では、四十万くん。あれはワザとやったの? 危険を承知で?』

『いえ……ワザとじゃないです。ワザとじゃ……』


『でも、河内かわちくんは君のスライディングで大ケガした。なぜ、ヘッドスライディングではなく、足から滑ったの?』

『無我夢中だったので……相手がケガするなんて……』


『君は危険を承知でスライディングをしたんだね?』

『いや、危険だなんて……ルール上……問題ないし……』


 このやり取りは、すぐにネットニュースになった。《事故か、故意か? 危険なスライディングの是非》という過激なタイトルで、ネットに広まり、タイトルを見た一部がネットで彼を叩いた。


 人間失格、サイコパス、犯罪者予備軍……あらゆる誹謗中傷が掲示板に書かれた。  

 顔が見えない文字が教育が悪い、と学校を断罪すれば、野球部と無関係の部活や一般生徒のSNSに怒りをぶつけたのだ。


 クラスはおろか、学校中で《四十万大輔退学キャンペーン》が始まった。


『四十万は悪くねぇって!』

『お前らに、こいつの何がわかんだよ!』

『お前ら、なんで庇えるんだよ!』

『こいつの身勝手なプレーのせいで――』


 ある日、野球部内の『事故』派が、反対派である『故意』派と衝突した。

 この衝突はOB、監督、学校経営陣も巻き込み、大騒動へと発展していく。


 学校は部の内紛を公にしたくなかったが、OBが部内の子供を経由して事情を知り、PTAに拡散、野球部の抗争派閥に保護者と一般生徒も加わった。


 完全に二分してしまった部は新チーム結束がままならず、春の甲子園出場がかかる秋大会で初戦敗退を喫してしまう。


 これに怒ったのが中立派のOBたちだ。名門の看板が汚されていく様はどうしても我慢できず、緊急集会を学校側に要求し、火に油を注いで炎となり、大きな火事となった。OB同士の対立は、もはや止める手段を消した。


 この焦げ臭い匂いは週刊詩にとって大好物だ。

 このお家騒動を知り、


《殺人スライディングの余波! 名門校の悪しき奴隷制度をスクープ!》


 電車の中吊り広告によって、野球部の闇が世間に広まった。

 この一報を受け、監督は責任をとって辞任、後を追って彼も退部する。


 彼は火中の栗、その者だ。

 人間が怒り、炎を滾らせていく過程はひどく醜く、もはや当事者などマッチ棒のような存在で、燃えれば捨てられるカスにしかすぎない。まして彼は無力な少年だ。


 ふてぶてしく座る理事長に、俯いたまま彼は告げた。


『今すぐ辞めたいです。別の学校に行かせてください……』

『いいや。四十万君、考えなおそう。君は部の闇を炙り出してくれた救世主だ。部の謹慎が明ける春に、新生野球部を引っ張ってほしいんだ』

『お願いします……辞めさせてください』


 彼の言葉に、理事長の笑顔がみるみる曇っていく。


『なら、今後のことは君のお父さんとよく話しなさい。彼は素晴らしい弁護士だから、ね? 我が校は君の新しい人生を邪魔しないから、ね?』


 こうして彼は学校を去った。そして、この騒動で学んだことがある。

 人間は自分の取り巻く状況によって味方にも敵にもなる、と。


 たとえ、ひとつ屋根の下で釜の飯を食べた仲間でさえも、金という甘い誘惑に負けて裏切る。信じていた同級生も信頼していた先輩も、実の親も……。


 信じて用いろ、信じて頼れ。信用と信頼は似ているようで違う。

 だが、彼は思う。選択した自分に全て跳ね返ってくる、と。

 奇しくもそれは、ホームランを打たれた捕手の責任と似ていた――。


 


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