【第1話 5】

 4月14日、土曜日――。


「う~ん、どうしてかな~。なんでかな~」


 二年E組担任の白川はわずか三帖の応接間で、生徒と向き合っていた。

 目を瞑りながら眉間に皴を寄せ、指先で二の腕を小刻みに叩く。


 教師をただの生活費を稼ぐ職と考えるならば、生徒の相談などテキトーに右から左へ流し、学年主任に提出する勤務報告書をさっさと書き上げ、池袋の街コンでも合コンにでも繰り出すだろう。


 しかし、白川は教師という職を誇りに思っていた。生徒のためなら他校の女教師との合コンを断ってでも赤点危機の生徒に補講し、付き合いたての彼女よりも遅刻常習犯の家へモーニング訪問し、バイト先を無断欠勤した生徒がいたら報告書に記載せず、店長へ頭を下げに行く。


 なので、33歳の彼は結婚相手のいない、出世とは無縁の平教師――。

 そんな生徒ファーストの担任を悩ます新たな問題は、向かいの中島大輔だ。



「――で、先生。あの二人は俺のことに気付いているんですかね?」


 目を閉じたまま、口だけを動かす。


「いや……気付いて、いない、はず」とても歯切れが悪い担任に、「でも、毎朝勧誘にやってきますよ?」と、生徒が間髪入れずに問う。


「お前の本名を知る人間は一部の教員数名だし、今はメガネキャラだし、髪型も今風のナイスパーだし……。気づく要素はない、はず、だが」


「じゃあ、なぜ野球部に誘ってくるんです? 野球タコもバレたし……」

「お前の存在はトップシークレットだぞ。生徒が知るはずない」

「でも、気付いていますって……もしかして、アホの直感?」


 薄らと目を開け、「そうかもしれん……もしや、坊主の面影で気付いた?」

 大真面目な相談を茶化され、中島は疑いの目を向けた。


「先生がバラした、じゃないですよね?」

「ア、アホ! マル秘の個人情報を晒せば即転勤だわ!」


「先生の性格からして、『弱小野球部を強豪にすれば出世できるかも』って、考えてそうですけど……?」

「アホ! それは……でも……思っていたよ」


 担任は潔く自白した。「いたのかよ!」と、生徒は目を丸くする。


「悪いのかよ!」本心に気付かれてしまい、白川は開き直った。

「俺だって元球児だ。教師になって、野球部の監督になって、甲子園を夢見た。それがなんだ、まったく強くなんねぇ! だから、あの四十万がうちに来るって思えば胸が騒ぐじゃん……もしかして都立で甲子園って思うじゃん……内心の自由じゃん……そんぐらい許してちょうだいよ……」


 大人が泣きそうなので子供は許す。「弱いのは指導力の問題でしょうに」


 ムッとした顔で、「なんだ、俺が悪いのか? でも絶対に違う!」

「よく言いきれますね」と、腕を組む中島は呆れ顔だ。


「だって、校庭だと危険だからって硬球禁止なんだぜ。だから練習しに西ヶ丘のグラウンドまで行くんだぜ。練習メニュー考えても、あいつら見に行かないとサッカーするんだぜ。そんで、マネはアホみたくダッシュさせて、大事なエースを肉離れさせんだぜ。それも春大前だぜ。あーあ、夏大までどうなるんかなぁ……」


「……アホは怖いですね」さすがに同情をよせた。

「ほんと、アホは怖いぞ! でさ、サイカスって普段はどんな練習を――」


 ハッ! 口が滑った白川は凍りつく。


 少年は心の中で、こいつもアホか、と悟った。


 サイカスとは、埼京大学さいきょうだいがく付属春日部高校の略称で、埼玉県人なら知らぬ者がいない学業もスポーツも名門中の名門だ。彼は今年の2月まで通い、彼は野球部で一年にして正捕手として学校の看板を背負い、甲子園の土を踏んだ。


 しかし、三回戦で、彼はホームクロスプレーで相手捕手を負傷させた。


 スパイクの刃が相手の右腕をえぐり、捕手はすぐ病院へ搬送され、20針ほど縫った。ベース付近は雨が降っていたこともあり、赤い海となった。


 この危険なプレーは《殺人スライディング》と呼ばれ、試合後のネットニュースやスポーツ紙、翌日のワイドショーが続々と報道した。


 動画投稿サイトでは1000万回以上再生され、彼と学校への誹謗中傷コメントも様々な掲示板で書かれた。そして、彼はこの《殺人スライディング騒動》をきっかけに野球を辞めた――。


 


 キョロキョロ、チラチラと白川は申し訳なさそうに中島の顔を覗く。

 テンパっているのだ。生徒と寄り添うどころか、生徒の傷をえぐったから。


「――あの、先生」ふと中島が口をすぼめた。担任は背筋を伸ばす。


「は、はい! なんでしょうか?」

「先生は……アレを『わざと』、『事故』、どっちだと思いますか?」


 頬に氷を押されたような、反射的に逃げたくなる質問だった。

 大人は静かに鼻から息を吐く。


「お前はどう思っているんだ?」小さく首を右に左と傾げ、「先生の意見が聞きたいんですよ」と少年は答えた。


「意見なら三月の面談で言っただろ。俺はアレを『事故』だと思っている。相手捕手が焦ったせいで起きたプレー、今でもそう思うよ」


 相手は春からコンバートしたばかりの捕手だった。逸れた返球を体で捕りにいき、両手でグローブを差し出すよう、ホームへ飛び込んだ。


 だが、飛んだ方向が悪く、スパイクの刃が右腕をえぐった。右つま先の感触を思い出した少年は、俯いたまま呟く。


「さよう、ですか……」その目線はテーブルの花瓶に向けられる。


「まだ、夢で見るんです。何度も『なんで頭から飛び込まなかった』って、『スライディングなら相手がビビる』って、一瞬でも思ったんじゃ――」


「バカッ!」唾が生徒の制服まで飛ぶ。「あれは事故だ。野球知らねぇキャスターの言葉を真に受けんな。あんなもん、主婦を煽っているだけなんだから」


「でも……」

「でも、じゃねぇ!」白川は檄を飛ばす。「そんな後付け設定したら、天国のかーちゃんが泣くぞ。相手とも和解したんだし、これ以上考えるなって」


 試合後、彼は監督と部長の三人で病院へ赴き、負傷した捕手へ謝罪した。相手校は穏便に済ませたく、すんなり謝罪を受け入れた。


「当事者で解決したなら、周りがとやかく言う必要はない。だから、悪いとしたらお前でも相手でもなく、世間様と前の高校だ。それに、誤審もあった。今は母親の名前で新しい人生を歩け。なんかあったら亀岡かめおかさんに言えばいい」


「そう……ですけどね」

 これだけ熱弁しても浮かないままの生徒に、

「――ったく、わかんねぇ奴だな。俺はお前の担任。お前は俺の生徒。うちでどんなことがあっても味方だって。だから、うちでは楽しく過ごせ」


 バチン! 弱気な彼の肩を強く叩いた。


 ――これでわかってくれたかな?


 教師としての手応えを感じるも、振り向く生徒の顔はひどく険しかった。


「先生、これは体罰ですよね?」


 その言葉は教師にとって背筋が凍るどころか、首を飛ばす宣告だった。


 一対一の個室で生徒をバチン、だ。女性教頭から『体罰は絶対にダメですよ』と釘を刺されている。問題を起こせば毎日サバイバルの村へ島流しだ。


「イヤイヤイヤイヤ、励ましだから! 白川流の一種のサービスですから!」


 冷汗が身体中から溢れ出す大人に、「……冗談ですよ」と少年はほくそ笑む。


「おい~、趣味悪すぎだって……。まー、お前は一人暮らしを頑張れよ。バイトが落ち着いたら、テキトーに文科系の部活でもやればいい。で、新しい友達を作ればいいからさ」と、白川は精一杯に生徒を気遣った。


「……考えておきます」

 中島はガラケーをちらり見て、テーブルを杖に腰を上げた。


「もういいのか? 他に話したいことは?」

「バイトがあるんで。先生、ありがとうございました」

「ああ、また何かあったら話してくれ」


 と、優しく肩に触れる。

「その伊達メガネ、けっこう似合っているぞ」

 カッコつけて親指を立てる白川に、

「彼女に言え」と、中島はニコリと笑った。


 生意気な生徒が去ったあと、花瓶の造花が残された教師に微笑む。 

 ため息のような一言を漏らし、電話をかけた。

「あ、亀岡さんですか? 担任の白川です。大輔のことでちょっと――」


 


 

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