【第1話 1】


 天気予報通りの大雨は、熱戦の球児たちを冷ますよう落ちてきた。

 外野の芝生は水しぶきが舞い、内野の真新しい土はみるみる泥となる。

 夏の甲子園大会三回戦――千葉総合ちばそうごう高校対埼京大学さいきょうだいがく付属春日部の試合は中断を挟みながら緊迫の場面が訪れていた。


 9回裏、3対1、2点ビハインドで春日部の攻撃――。


 三塁側から「あと一人! あと一人!」と、一塁側から「お前が打たなきゃ誰が打つ!」と、大声援が戦場の選手たちへとこだまする。

 エールを切り裂く強い雨音は、放送席の声をも熱くさせた。


「ワンアウトからフォアボールとエラーでランナーが出て、ここで一打が出れば同点、ホームランなら逆転サヨナラの場面! ここで打席に立つのは、《春日部の魔法使い》こと一年生の四十万しじまです! 一回戦では逆転サヨナラホームランを放ち、先輩たちの夢をつなぎました!」



「四十万、オレを返せっ!」

「俺はまだ野球がしてぇんだ、四十万ァ!」

「また魔法を、見せてくれええええッッ!」

「四十万君、お願い! 奇跡を……また……」


 グラウンド、ベンチ、スタンドから先輩たちとマネージャーの願いが耳へと届く。しかし、彼は後ろを振り返ることなく、前を向いていた。


 バットを手になじませ、ぬかるんだ左打席で足場を作り、逃げ場のない投手を睨みつけた。その目は相手をひるませる。


 投手は降りしきる雨で何度も指先をズボンで拭き、スパイクで足場を均している。捕手が叫ぶ。「リラックス! リラックス!」


 自分が緊張するってことは、相手も緊張している――。

 そう言い聞かせる打者は冷静になれた。そして、ある球種に狙いを定める。

 

 捕手のサインに頷いた投手が左足を上げたとき、はっきりと口元がすぼんだ。

「あっ!」と右腕を振り抜く投手はすぐさま過ちに気づく。水滴で指先が狂い、ボールが抜けてしまったのだ。


「山なり、外角高め、カーブ!」カッ、キーンッッッ! 

 

痛烈な打球が右中間に舞い上がった。雨粒を弾き飛ばし、無人の、前進守備のライトとセンターの間に落ちた。


「打った瞬間、三塁ランナーがホームイン! 続いて一塁ランナーも三塁を……回った、回ったァ! ホームイン、同点ッッ! 春日部、同点!」


 興奮するアナウンサーの目には、虎視眈々とホームを狙う選手がうつる。

「バッターランナー、三塁を蹴ったァ!」


 ライトからの返球が中継のセカンドに届いたとき、「四十万、止まれえええええ!」と、打者走者は両手を広げる三塁コーチャーを振り切っていた。


 ――よし、行ける! 勝てる!


 四十万はこれでもかと腕を振った。ヘルメットが落ちようがどうでもいい。

 彼は数メートル先の勝利がほしかった。足首が捻挫しようが、規約違反で監督や先輩に怒られようが、どうだってよかった。


 ホームへ突っ込んでくるランナーを見て、捕手を腹から叫ぶ。


「ユウ! バックッッッッ!」


 セカンドから思いをつなぐボールを、ファーストがホームへつなぐ。

 だが、握りが甘かった。


 ――よし、逸れた! 


 ランナーは最高速度で泥だまりへと滑り込む


 ――クッ! だが、泥が目に入った。拭く余裕はない。


 スパイクかミットか、全神経をつま先に集中させる。


 バシッ、白球が耳に届いた。だが、それは一瞬すぎた。四十万のスライディングはベースを過ぎるほど力強いものだったが、確かな感触があった。ただ、硬いベースとは違う、柔い感触だった。


 ――今のは……なんだ……? 


 泥だらけの彼は勢いとともに立ち上がり、背後を振り返った。


「セーフ! セーフ! ゲームセット!」


 と、暗闇から球審の声が届く。慌てて目元をこする。熱いものがこみ上げてくる。 

 

 しかし――、「担架だァ! 早く担架をッ!」と怒鳴り声が雨音を切り裂いた。


 そこには右腕を抱え、ユニフォームを真っ赤に染めた捕手が蹲っていた。


 甲子園が血に染まった――。


 


「ハァ、ハァ、ハァ……またアレか……」


 そのとき、目が覚めた。気が付けば、高鳴る心臓を鷲掴んでいた。

 乱れる呼吸を止めるべく、布団から出た少年はキッチンの蛇口を捻り、からからに乾いた喉を鳴らす。


 ゴクゴク……はぁ~……。


 安堵感からか、ずっしりと重い息が漏れた。薄いカーテン越しの外はまだ暗い。充電中のガラケーを見る。


 時刻は3時34分、まだ深夜だ。日が昇るまで、登校時間まで寝られる。しかし、眠気はまったくなかった。


 ちゃぶ台に置いたノートPCを立ち上げ、毛布を抱く。

 彼の家にはテレビがない。ガラケー同様、節約のためだ。


 代わりにネット番組で天気予報を見始める。今日から週末は快晴らしい。

 チャンネルをザッピングし、音楽番組を付けたまま、また布団の中に入る。


 盗んだバイクで走り出す歌が、不思議とこの気持ちを撫でてくれた。

 そんな17の夜、メロディを口ずさむ。何も考えないように――。




 

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