第二十二話 雨の週末

 ――雨音は考え事を助長する。そして、なぜかテンションが上がる。思考と爆発、雨の週末。――




 連日の雨により、微妙な涼しさと水分を多分に含んだ蒸し暑さが一限目の教室を出入りする。

 学校の自然が豊かなせいか、廊下側の全開になった窓から、何とも言えない緑のぬるい風が鼻を衝く。


 このじめじめした環境を一掃することは、天井に設置された二台の扇風機では荷が重すぎるようだ。クラスの皆は週の終わりだというのに、本日の天気を反映したかのようにどんよりとしている。


 こんな状態でも、一人で元気よく二次関数のグラフをくいんと描く先生は悩み事がなさそうで羨ましい。板書ばっかやってないで、たまには物理の先生の雑談や世界史の先生のサボタージュみたいに、息抜きの時間を作ってほしいものだ。


 かくいう俺も先生に負けず、広げたノートに休むことなくペンを走らせている。

 円を描き、その中に八つの角を持つ線対称の星を描く。これを一筆書きで……


 かなり慣れてきたとはいえ、八芒星を描くのはとても難しい。漢字練習のノートばりに並んだ、このたくさんの同じ記号を誰かが見ると「独特な世界をお持ちのようで」じゃ済まされない、なんとも危険な感じがする。俺がずっと練習しているこれら“創造世界へのオクタグラム”すべてから、何かが召喚されそうで不気味だ。


 シュライルはなぜあんなにも綺麗に描くことができるのだろう。何か秘密があるのではないだろうか。


 暗い空はまだまだ晴れ間をつくる気がないようだ。


 明軍のアラルーグが抱愛つつめさんを襲ってから、はや一か月。明軍に会いに行くと言っていたシュライルからの音沙汰はないが、オールビットは膠着状態が続いているらしい。禍野高校で何かを企む明軍と、それを阻止したい暗軍。明軍の目的がわからないことには手の打ちようがない。

 ミコは抱愛さんともすっかり仲良くなり、夜遅くに俺を含んだ三人で学校の周りを散歩しに行くことも何度かあった。俺も友達と遊ぶことが増えたし、気の緩みは徐々に拡大している気がする。

 そろそろ新しい“力”を習得しなければ。俺がしっかりしていないと、また一か月前と同じようなことが起きたら次は……


 勢いが増した雨音で、意識が教室へ回帰した。


 ただ相手の動きを待つことしかできないという窮屈さが、少しばかり脳のメモリを蝕む。それでも俺は、今日も平穏な学校生活を送っている。



 今週の授業がすべて終わった。あとは放課後の掃除を終えれば休日がやってくる。

 今週は出席番号二十二番から二十八番が教室、二十九番から三十五番が美術室の掃除当番だ。


 美術室に着くと、根見口ねみぐち柱矢はしらやが廊下に鞄を置き、ほうきと雑巾を手にして待っていた。


 金曜日、放課後、大雨。この変にテンションの上がるシチュエーションで馬鹿共男子が美術室でやることは一つしかない。


「高校室内野球、梅雨ばいう期大会の開催をここに宣言するっ!!」


「よっしゃあああっ!」


 地を打つ無数の雨の音にかき消されるのをいいことに、柱矢はしらやが声高らかに雑巾を掲げた。


「ふっふっふ……遂にここまで来てしまったな、柱矢……思えばあの小さな部室でお前と出会わなければ、俺たちは今このマウンドに立つこともなかっただろう……」


 いつからいたのか、開いたドアに寄り掛かった決め顔の長谷峯はせみねが美術室に球場を投影し始めた。


「は、長谷峯はせみね、お前っ……! ああ、共に戦おう! 相手は強豪だが、俺たちの廃部寸前から再建した高校三年間の夢を、この球場にいるみんなに見せてやろうぜ!」


「かかってこい、禍野まがの高校、この根見口ねみぐちから三振を奪って見せてみろ!」


 俺たちはまだ高校一年だし、青春ドラマを展開しているバッテリーの柱矢と長谷峯も、ほうきを構える強豪の相手校らしき根見口も、ここにいる全員が帰宅部だ。


「おいちょっと! 設定決めんの早すぎだって!」


「甘いな、早いもん勝ちなんだよ! 独瞬ひととき福沖ふくおきと実況解説な」


 黒板の前バッターボックスの根見口になだめられ振り返ると、一番後ろの中央の席に福沖ふくおきが座っていた。


「ほら、早く隣に座って。もう試合は始まってるのよ」


 福沖は野球部の女子マネージャーだ。クラスでも随一の野球好きであり、雨の日の今日もトレードマークの赤い野球帽を被っている。この馬鹿の集まりに男子も女子も関係なかった。


「お前ら、事前に打ち合わせでもしてたのか……?」


 ピッチャー柱矢はしらやの約一メートル後ろにセンター長谷峯はせみね。それを最後尾の椅子に座って見守る実況福沖と解説俺。


 かくして、ただ雑巾をほうきで打ち返すだけの遊びが始まった。


 丸めて投げられた埃色の雑巾は、ほうきで打たれる頃にはへなへなと布の形に戻る。


根見口ねみぐち打ったあああ!」


 小柄な女子とは思えないほどの迫力で実況の福沖が叫んだそのとき、美術室のドアが勢いよく開き、『バン!』と大きな音がドアの跳ね返りと同時に響いた。


独瞬ひととき選手を暴言で退場といたします」


 球場に遅れて登場したのは、この掃除班の最後の一人、中山だった。


「……俺解説なんだけど」


 いくらなんでも捌ききれない。

 なんか、球審っぽい役で入ってきたが、状況を把握せずに適当に言っただろうお前。

 場を凍らせた中山は、ばつが悪い顔をしている。


「おい、中山、役はもうキャッチャーしか残ってねーぞ」


「ちぇ、こんなことならトイレでゲームしてくるんじゃなかったな」


 バッター根見口が中山を手招きする。

 中山がどっしりと構えたところで湿度の高い高校野球が再開した。


「さあ、試合は三対二、九回裏二死満塁。禍野高校ここを抑えれば優勝! 最終打席に立つのはまたしてもこの選手、根見口です!」


「え、もうクライマックス!?」


 俺のツッコミを無視して柱矢はしらやが口を開いた。


「最終奥義を出すときが来たか……」


「柱矢……! まさか、あの技を使うのか!?」


 実況席の隣に腰かけ、もはや守備する気もない長谷峯はせみねがお決まりのように驚いた。


 柱矢は机を避けながらそそくさと窓際へ歩き、絵の具の跡が残る水道の蛇口を回し雑巾を固く絞った。そして、ゆっくりとマウンドへ戻る。


「俺の最終奥義、ヘビーボールを打ってみやがれえ!」


 柱矢は湿気が気になるグレーの雑巾を根見口にほうった。


「甘いっ!!」


 ほうきの芯で捕らえた根見口の打球は、『ビチャ』という音を立てながら濁った直線を描き、美術室の後ろの壁に『ビチャ』という音を立ててぶち当たった。


「ホームラーーン!!」


 福沖ふくおきが椅子を吹き飛ばす勢いで立ち上がり、大声を教室中に散らしたが、それはすぐに悲鳴に変わった。


 後ろの壁の高い位置に飾ってあった美術教師の作品を額縁ごと、汚い濡れた雑巾がはたき落としたのだ。


「根見口選手を器物破損により退場といたします」


 中山、お前“退場”って言いたいだけだろ! とはツッコむ暇もなく、野球は想定外の夕立により延期となり、落下した絵画を元の位置に掛け直す会議が始まった。


「おーい、掃除しとるかー?」


 会議が始まって三秒で本物の審判が現れた。今週一回も姿を見せなかったくせに、先生ってほんとそういうところあるよな。


 根見口、柱矢、長谷峯、中山の四人は先生を美術室に入れまいと必死にごまかしているが、苦しすぎる。


「な、なんだ、中でなにかやっとるのかね?」


 まずい、ばれる。全員退場になる。

 俺のあの“力”がなければ、の話だが。例え手の届かない位置だろうと関係ない。


 重心を額縁のあった場所へ作り出し、浮き上がった美術の先生の力作を元の場所へ慎重に。


「ほら、先生。何もないでしょう?」


「う、うむ? とにかく、早く終わらせて帰るんだぞ」


「はい! 了解しました!」


 俺たちは事なきを得た。


独瞬ひとときナイス! まじでどうやったんだ!?」


 俺に感謝の言葉を述べた根見口たちはほっと胸をなでおろし、ほうきを片付けて帰っていった。

 一切掃除してないけど、週末だしいいや。


「……それで、さっきのはどういうこと?」


 先生を抑制していた四人の男子には気づかれずに済んだが、俺の隣でずっと凝視していた一人の女子には色々と説明する必要がありそうだ。


「まあ、いつかこんな日が来るとは思ってたんだけど……」


「まさかあんた……」


 よりによってリーカー気質の福沖に能力を見られるとは、ついていない。


「なんていうか、説明が難しいんだけど……最初の物理の授業で先生が話したこと覚えてるか?」


「タネのないマジックの話?」


「そう。この世には実現不可能と言われることを可能にする“力”を持った人間が……」


 うまくごまかす方法はないかとゆっくり考えながら話し始めたが、同時に福沖が目を見開き、前へ倒れた。


「福沖!? どうした!?」


 しゃがみ込み呼びかけたが、福沖は意識を失っている。彼女の背中にはダーツの矢のような太い針が刺さっていた。


「何だよこれ……うわっ!」


 顔を上げると、白で統一されたコートとミニスカートを着た少女がドアの前に立っていた。


「誰だ!? お前がやったのか!?」


 巻き髪の黒いツインテールに切れ長の目。冷たさを感じる白い肌にふっくらとした唇。両手を体側に付け、ただ真っすぐ立っている。


「……これからあなたにお願いをする。独瞬走人。選択肢は『はい』か『いいえ』かの二択。意味さえあっていれば返事の言葉は何でもいい。『いいえ』だった場合、この女子生徒は死ぬ。答えを出し渋っても死ぬ。今打ち込んだのは即効性の毒だから」


「毒……?」


 滔々と話す少女に恐怖しつつも、俺は次の言葉を待った。


「わたしとあなたの二人だけで、一緒に明軍のリーダーのところへ来て」

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