第十五話 白昼の逃走

 ――逃げることは間違いじゃない。自分ではどうにもならないこともある。だが、ただ逃げるだけでは解決しないことだってあるだろう? 頼れる人はいるか? 誰かに助けを求めることができるなら、それは一つの戦略だ。越えられない壁を壊すための一手、白昼の逃走。――




 薄紫の日傘がひらいたまま、なだらかな緑の丘を軽く跳ねながら転がって、下の校道沿いにある自販機にかつんとぶつかり、静止した。


 抱愛つつめさんは、突如現れた黒い小型銃の弾丸を受けたのか、横たわってぴくりともしない。


 その銃を左手に顕現させ躊躇なく撃ったのは、視界に入るものすべてをつんざくくようなきつい眼光を宿す、俺の左後ろに平然と立つこの男。

 入学式の日、あの猫のルージヤですら恐れた、明軍のアラルーグだ。


「ふん、簡単だな」


 俺だけに聞こえるように、アラルーグは呟いた。


 俺たちを狙った攻撃だったことは間違いない。だが倒れたのは抱愛さんだけだ。

 俺ではなく、抱愛さんを……?


 ――くそ、俺の体、動け……


 この衝動は恐怖だろうか。この後自分が撃たれるかもしれないと考えはするが、それよりもっと優先すべき感情がある。

 焦り。抱愛さんが生きているかどうか…………もし助かるすべがあるならいち早く誰かに知らせなければ。でも、それと同じくらい……

 怒り。俺たち禍高の生徒のことなど、なんとも思っていないような明軍のやつらの行動が。訳も知れないその態度が――絶対に許せない。


 俺は辛うじて動く首を上げてアラルーグを睨んだが、やつは相変わらず気疎く笑っている。


 左手に持つ黒い銃を見つめるアラルーグだったが、二撃目を放つことはなく、出現させたばかりのそれをその場で握りつぶした。

 バナナのようにぐにゃりとひん曲がった鉄くずは、アラルーグの左手に溶け込むように融解し、消失――


 アラルーグは流れる足取りで倒れている抱愛さんへ近づき、グレーのブレザーから覗くシャツの後ろ襟を掴み、軽々と左手で担ぎ上げた。


 俺は芝生を土ごと握り潰し、ようやく動いた体でどこかへ立ち去ろうとするアラルーグのコートに爪を立てた。


「何で……理由があるなら説明しろよ……」


「貴様に知る権利はない」


 即答したアラルーグは、俺の手をコート伝いに引き離す。


「妙な動きをすれば次は貴様を撃つ」


 抱愛さんを担いだまま、隣接した林へと直進している。

 あいつの狙いが殺人ではなく誘拐なのだとしたら、あるいは……


「……ここは禍野高校だ。お前たちが遊ぶための公園じゃない」


 前からの風を受ける白いコートがまっすぐに垂れる。アラルーグの足が止まった。


「貴様のものでもない」


「でも俺たちの居場所だ。明軍とかわけのわからない屑どもに集られると勉強の邪魔なんだよ」


「なかなか強気に吠えるじゃないか。ならば貴様に止められるとでも?」


 アラルーグは意外にも容易く俺の挑発に乗ってきた。チャンスだ。


 身長差は十センチを優に超える。それにこの男は間違いなく“黒の力”を使ってくる。俺の覚えたての“力”ではまともにやりあっても勝ち目はない。


「お前に俺は撃てないぞ! アラルーグ!」


「調子に乗りすぎだ少年。貴様の愚かさを一撃で痛感させてやろう」


 相手の心を僅かでも乱すことに注力した発言だったが、それがアラルーグの攻撃トリガーにもなった。


 俺は即座に左右の掌を突き出し、アラルーグの頭部に重心を強くイメージした。

 対するアラルーグは左手を俺に向け、銃を持つように指で鍵型をつくった。


 かろうじて先手を取った俺は、痛みを顧みないほどのかつてない凄まじい勢いで合掌した。

 同時に周囲の木々がみしみしと音を立て、近くの葉や枝、周辺の落ち葉の一枚一枚が一斉にアラルーグの顔に覆い被さっていく。


 アラルーグが作り出した黒い銃はその手から離れ、地面に落ちると粉々になり蒸発する。


「むぐぐ!」


 相手の動きを封じることに成功した。次だ。


 足元に置いてあった「政治・倫理」の教科書を拾い、顔にまとわりつく枝葉を剥がそうと必死になるアラルーグの懐に潜り込む。

 しゃがんで重心をアラルーグの腹部へ設置し、腰を上げながら背を向ける。

 大きく深呼吸し、「政治・倫理」を全力で丘のてっぺんから遠い雲を目指して投擲。嫌いな教科だからか、いつもよりも力がみなぎる。

 重心とつながったロープはぎりぎりまで伸びきり、俺が掌を合わせると誰も見たことのないであろう速度で「政治・倫理」が帰還し、そのかどがアラルーグの腹にめり込んだ。

 そして、呻くアラルーグの肩から転がり落ちた抱愛さんを速やかに背負い、その場から逃げ出した。


 いける! 走れ! 行き先は一つしかない――


 校道を猛進し、男子寮第二棟の階段を駆け上がった。

 2-201号室の鍵をもたつきながら開け、入ってすぐに鍵をかけた。


 抱愛さんをベッドに下ろし、肩で呼吸をしながらカーテンを閉める。

 出血は見られず、呼吸もあるようだが目を覚まさない。

 休む間も設けずに、ベッドのそばの青い扉に呼びかけた。


「ミコ!! 急いで出てきてくれ!! 頼む!!」


 しかし、いくら呼びかけても反応がない。叩いてみても、押してみても、耳を当ててみても……


「何で、こんなときに、限って……」


 呼吸も落ち着かず、安否不明の戸惑いが脳を烈しく回転させ、オーバーヒートしそうだ。


 ぐるぐると繰り返す、焦燥、恐怖、不安の感情が思考を鈍らせ、締め切った部屋に充満する初夏の生温かさが相まって、肌という肌から水分が溢れ出る。


『ピン、ポーン――』


 部屋のチャイムが鳴り、苦しかった息がぴたりと止まる。

 このタイミングで訪ねて来るなんて……


 アラルーグが追ってきた可能性を捨てきれず、おそるおそる覗き穴を確認した。


 外に見えたのは男子生徒だった。ゆるいパーマのかかった柔らかそうな茶髪は耳にかかり、前髪は眉を隠している。温かく丸い瞳は優しさそのもので……顔の前で持って見せている勾玉は眩しい緑に発光していた。


 間暇まいとまだ!


 首にかけていた紐を通した勾玉を、シャツの胸元から取り出してみる。

 じんわりと瞼が重いのは、あまりにも眩しく輝く緑色が俺の目を射したからだろうか。


 ドアを開けると、いつもの穏やかな間暇が俺を待っていた。


「ごめんっ、遅くなって」


「遅すぎるって……どうすればいい? ミコがいないんだよ……」


「大丈夫だよっ。とりあえず、その扉の向こうへ行かなくっちゃねっ。ヒトくん、きみならそれができるはずだよっ」


 ――そうだ。今はなんとしても、ミコのいるあのコテージへ行かなくてはならない。


「この絵の扉……開け方があるんだ。たぶん……」


 俺は密かに観察していた。ミコがに行くときはいつも同じ動作を行っていることを。


 ミコの、“哀れみの心”を根源とする“白の力”は、まだ俺には理解できない。だが、この扉はそれとは関係のない、別の“力”によるものだとミコは言っていた。

 この扉を開く方法が、想いを介するものではなく、単純な動作だけを要求するものであるならば、俺にだって……


 青い扉に人差し指をくっつけ、扉にぎりぎり収まる大きさの円を上から描く。そのまま一筆書きで円の中に八芒星を描き……指を離した。


 やや不恰好な八芒星は、電池が切れかけたおもちゃのように不規則に点滅した。

 その数秒後、扉は音を立てることもなくひとりでに半分ほど開いた。


「おおっ、やるぅ!」


「それで、お前が来たってことは何か重大なことが起こってるっていう解釈でいいんだな?」


「そうだねっ。なんとなく今回は危険な感じがするんだよ。巻き込んだ責任者として、きみを死なせるわけにはいかないからねっ」


 俺をこの世界に連れてきたのは間暇だ。だから間暇の言いたいことはわかる。でも、それなら抱愛さんが撃たれる前に止めに来ることだってできたんじゃないのか?

 なんて、穴を探している暇はないな。


「抱愛さんは助かるんだろうな?」


「きっと大丈夫っ。ピストル男が来る前に、早く扉に入ろうよ」


 貧相なテーブルに転がった二本の鉛筆をズボンのポケットに収め、眠ったままの抱愛さんを再び負ぶって壁の中へ入った。



 ***



 そこは、深い森のなかにある見通しのいい遊歩道の上だった。

 前方に広がる景色は草木をかき分けるただまっすぐな一本の道。その景色は回れ右しても何ら変わりなかった。道の両脇には木が生い茂っているが、上空は木の枝で妨げられることはなく、美しい空がどこまでも遠く澄んでいる……

 しかし、その大空の色は扉のの世界とは異なり、淡いエメラルドグリーンだ。


「ここは……?」


 俺は確かに寮部屋の落書きの扉を開けてここに来たはずだ。だがその扉はどこにも見当たらず、いるのは抱愛つつめさんを背負った俺と後から入ってきた間暇まいとまだけ……


「すごいところに来ちゃったねっ、知ってる場所なの?」


「わからない……」


 俺は当然のようにミコのコテージに入ったつもりだった。そのはずなのに、コテージなど見当たらないどころか、紛うことなき屋外、森の遊歩道だ。


「ドアも消えてるし……どうすんだよおい……」


「とりあえず靴履こうよっ。いくら地面が柔らかいからって、布一枚じゃ危ないよっ」


「え? あ、そういえば……」


 俺の足があまりにもここの地面に馴染んでいたからか、靴下のままドアをくぐったことに今さら気づいた。


「いつの間に俺の分まで持ってきたんだよ?」


「いつだって冷静でいられることが何よりの武器なんだよっ。今この状況でできることをひとつずつ考えようっ」


「そうだな……」


 バランスを崩さないよう慎重に靴を履いた。背中から抱愛さんの体温を感じる。

 途端にずっしりと重みが増し、歯に力が入る。

 左右に深く広がる森のどこかから、鳥の囀りが聞こえてきた。


「よし、もう大丈夫。とにかくここから移動しよう。間暇、お前の勘は何て言ってる?」


「うーん。まだよくわからないね。ここがどこかもはっきりしないしっ、進むしかなさそうだねっ」


 俺たちは、今見ている正面に向かって進むことにした。前後どちらを見ても遊歩道の景色は変わらないし、これが現実なのか疑いたくなるほどに果てしない、ただひたすらに森を割る直線でしかなかった。


「なあ、どれぐらい歩いたかな?」


「まだ五分くらいじゃない?」


「最初と何一つ景色が変わってないと思うんだけど、前に進んでんのかこれ?」


 あの扉を開けたことを後悔し始めた俺は、少しでも変化が欲しいと、左右の森へ入ることを提案した。


「それは危ないと思うよっ、ヒトくん。もし森で迷ったらこの道にすら帰ってこれなくなるかもしれないよっ」


「じゃあどうすんだよ? このまま歩き続けても何も変わんないって」


 俺たちの進む道は文字通り終わりが見えない。どこまでいっても森を分断する道幅の地平線があるのみで、背景は淡いエメラルドグリーンの空。雲も流れていない。


「ヒトくん、まだ戦う体力は残ってる?」


「戦う? 何と?」


「第二ラウンドだよっ。ようやく別の道が見つかったみたいだから」


 切れた息を整える俺の後方で、微かに木々が揺さぶられるような音がした。


「え、まさか……?」


 音は次第に大きく、近くなり、パキパキと枝が押しつぶされていくのがわかる。


「最悪だよ。俺の頑張りを返してくれ……」


 俺は遊歩道脇の大木の根のそばに重心を作り出し、左右に並み立つ広葉樹から葉だけをかき集め、抱愛さんを数百枚の葉から成る緑のクッションの上に寝かせた。


「間暇、抱愛さんを頼む」


「ヒトくんの超能力をちゃんと観るのは初めてだねっ。きみなら勝てるかもっ!」


「馬鹿か。お前も俺がピンチになったら命がけで助けるんだよ責任者」


 やがて木々を搔きわける音が止み、道の上に現れる一人の男。

 茶や緑で薄汚れたコートはもはや純白と呼べる代物ではなかった。ぼさぼさになり枝葉の引っかかった漆黒の頭髪は当初の威厳を保つことなど到底叶わない。

 それでもなお、くうを裂く鋭い眼差しだけは未だ冷徹な輝きを宿していた。


 こいつとはどうしても決着をつけないといけないらしい。

 明軍のアラルーグ。この男との戦いの中で、抱愛さんを狙った理由とこの場所の正体が明らかになるのだろうか。

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