第一話 つまらない人生の終わり
――自分にとっては普通の人生だった。この場所に来るまでは。後に気づく。良く言って平凡な寂しい生活。そんな、つまらない人生の終わり。――
緩やかな上り坂の先にある、一人一部屋の男子寮。団地のように六つのマンションが密集している。
フロントで2-201号室の鍵を受け取り、あまり光の差さない階段をタタンと踏む。
高校の敷地内にある寮とはいえ、校舎からはやや距離がある。のんびり歩いていると、セリフの少ない少年漫画なら数話読めるぐらいには時間がかかってしまう。
荷物を雑に置いたまま片付けることなく、小さなテレビを無意識に近い状態で観ていた。
新居のにおいが気に入らず、窓を開け換気をし続ける。春の柔らかい風が体全体を包み、するりと部屋を抜けていくのが感じられる。
「そろそろ夜ご飯、買いに行くか」
無駄に大きな声で言い放ち、立ち上がって体を縦に伸ばした。
ふと思い出す。
あの子はなぜこの学校に来たのだろうか。
女子寮と男子寮は真逆の方角にある。校舎を出てそれぞれの寮へ向かう
「メール交換しときゃよかったかなぁ……」
今の時代、“フレフレ”なる友達づくりの応援アプリがあるが、俺の画面に表示される登録人数は数字がたったの一つ。
両手の指で足りる、この原始的な数字をずっと眺めているとどうにもいい気分はせず、いつもすぐにアプリを閉じる。
いつの間にか床に座り直していた俺は、右隣の女子ともっと仲良くなるための作戦会議を開いた。
***
「彼女から話しかけてきたということは、議長に多少なりとも好意があるということ。そう思うだろう、ノーナイ議員ツーよ」
「思う思う! 議長がしっかりやればあんなの楽勝で友達確定だぜ! ノーナイ議員ワンの言うことは間違いねえ」
「でも、俺中学でコミュ力を全ロストしたしなぁ……」
「何言ってんだ議長! それは議長を縛っていたアイツのせいだろう! アンタは本来なら誰とでも仲良くできる人間なんだ、思い出せ!」
「ノーナイ議員ツーの言う通りだ。いつまでも殻にこもっている必要はない。高校で生き方を変えるんだろう?」
「ノーナイ議員ワン、ノーナイ議員ツー……ありがとう。高校三年間、絶対成功させてやる!」
「議長、そのいきだぜ!」
「では、俺があの子に限らず、とにかく積極的に話しかけるということで決定と……あ、今日一言も喋ってないけど何かある? ノーナイ議員スリー」
「脳内で架空のキャラクターを三人も作り出して作戦会議している時点でそこら辺の妄想酷いキモヲタと変わらないから、まずこの気色の悪い定期イベントを廃止することが忍引退への近道だと思うわ」
「それ、正解だ!」
「それ、正解だな」
「それ、正解じゃん……」
***
作戦会議はノーナイ議員スリーのクリティカルな一言でお開きとなり、俺はたちまち現実世界へと叩きだされた。
中学生になってから周りの人とあまり関わらなくなった俺は、なんでも自分一人で解決するために、しばしば頭の中で空想の人間を作り出しては相談相手になってもらっている。
妄想や脳内シミュレーションは楽しい。特に夜寝る間際に始めるともう止まらない。次の会議が開かれることはなさそうだが。
意識が部屋に舞い戻ってきたところで、高校にある第一売店へ向かった。
眼を開け始める街灯。なだらかな下り坂。タイヤとアスファルトが奏でる心地いい摩擦音が、近くの大通りを行き交う車の軽快に走っている姿を教えてくれる。それはイメージとして容易に形作られ、頭の中に都会の夜景が広がる。それほどまでに音の少ない、不思議な澄んだ世界。
ひんやりと広がる黄昏の静かな風は、都会の中にしては緑の多いこの学校の敷地一体をさらさらと揺らすようで、自分が自然と同化したような感覚になる。
落ち着いた道のりから一転、売店は多くの生徒で賑わっていた。
安っぽい造りの割に、中身はやたら豪華なスーパーマーケット。わくわくするような品揃えだ。流石は国が特別に運営する学校なだけある。
生徒は学校の外に出ることを許されているが、皆初日だからか校内で様子見しているという感じだろうか。
買い物を済ませ、来た道をなぞるように帰る。
無音で揺れる木の枝に違和感を覚え立ち止まった。
いくら人通りが少ないとはいえ、あまりにも静かすぎる。なぜだか音が聞こえない。耳が聞こえない?
いや、音がない!? 考えてみれば、売店にはあんなに人が集まっていたというのに、この道に立っているのは俺一人……
違う、あの街灯の下にもう一人……!
先ほどの作戦会議で決まった“
道の先にいたのは俺と背が同じくらいの男子生徒だった。耳にかかる柔らかそうな明るめの茶髪に、優しさが溢れ出るような丸い瞳がどこか安心感を誘う。彼も俺のことを見ていた。
このはっきりしない恐怖を消し去るためにも、久しぶりに会話の始点になるときが来た。
「あ、あの……」
「ねえっ、こっちこっちっ」
声をかけようと、コミュ症特有のスタッカートでスピード感のある感動詞を捻り出したが、相手の声にかき消された。
手繰られるようにして近づく。「お前は誰だ?」と言うか迷いつつ。
「えと、きみ、誰?」
初対面で“お前”はないだろう。そんな意見が議員たちから寄せられた気がして、人知れずセリフを編集した。
「十組の
「俺、
だめだ。緊張で、人の言葉を覚えた知能レベル1のモンスターみたいな片言になってしまう。
「ヒトくん、そこの茂みの隙間からベンチが見えるでしょ? あそこにこの石を投げてみてよっ」
「え、ベンチ? なんで?」
なんだ? この感覚。こいつからはただならぬ何かを感じる。見えないものが見えているような、まるで世界のすべてを知っているような……
そしてこの余裕のありまくりな表情。もしかしてこいつ、間違いない。思った通り……
コミュ力高い人間だ!
だいたい、出会って二秒であだ名をつけてくるあたりがもう完全にそれだろう。
「あのベンチに嫌いなやつが座ってると思って! さあっ、思いっきりいってみようっ!」
「いや、嫌いなやつがいても手のひら大の石なんか投げつけないだろ」
だが彼は真っすぐ俺の方を向いたまま一切口を開かなくなり、この沈黙に耐えられない俺はやむなく振りかぶることにした。
陽キャ特有のノリかもしれないしな。
「もう、わかったよ! いくぞ!」
誰も座っていないベンチの背もたれの少し上の方に、当たれば負傷不可避なサイズの石をなんとなく誰にもばれないように投げつけた。
肩が痛い! 十メートル以上の投擲なんて中三の体力テスト以来だ。
風を切って若干の放物線を描いたごつい石は、狙い通りベンチの背もたれのやや上の空間にヒットした。
我ながら良いコントールだ。しっかりと的に当たった。
ん? 当たった!?
「痛っ!」
俺の投げた石は空中で急に軌道を変え不自然に落下し、それと同時に、誰かに石でも投げつけられたかのような痛々しく低い声が聞こえてきた。
「え、何? どういうこと?」
無理な運動で負傷した右肩を左手で抑える俺に、
「見たでしょっ? 聞こえたでしょっ? あそこに誰か座ってるんだよっ! あれは現代科学では証明できないこの世の心理に関わる何かだよっ!」
もう一度よく見てみるが、やはり誰も座っていない。
「お前ってもしかして……」
そうか、こいつはそうだったのか……
「陽キャのふりしたイタいやつか?」
初対面のやつを「お前」呼ばわりしてしまっていることなど、もはやどうでもいい。
たまにいるよな。クラスの一番派手なグループに属していると思いきや、実はいまひとつ馴染めていないちょっとずれてるやつ。俺はそういう系のやつに声をかけてしまったということなのだろうか。二人で茂みに隠れてコソコソしているのが馬鹿らしくなってきた。
「何のことかよくわかんないけど、今はあいつの正体を突き止めないとっ」
「正体って? まさか本当にあそこに誰か座ってるとでも?」
確かに先ほどの現象は何なのか気にはなる。明らかに物理法則を無視した石の動き。まさか俺に特別な力があるとでもいうのか。
いやだめだ、俺はそっち側の人間ではないんだ。その車両の乗車券は持ち合わせていないぞ。
「あいつとは吾輩のことか?」
不意に後ろから声をかけられた。それもついさっき聞いた唸るような低い声だ。
振り返ると、そこには猫の顔をした二本足の生き物が牙をひん剥いて立っていた。
この瞬間、俺は未開の扉を開けてしまったのだ。自分で開けたわけではない。動く歩道に設置された入口専用の自動ドアだった。
始まりは、夕日が目にきらりと差し込む入学式の日の放課後。
第一売店から男子寮までの長く緩やかな一本道の途中、何の変哲もない開けた芝生の広場で起きた不思議な話。
もう後には引けない、不思議な現実の話。
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