黒いマジック
伝子
序幕
四月三日、午前九時。俺は今、非常に困っている。いや、それどころか絶望の窮地に立たされていると言っても差し支えない状況にいる。なぜかって、三学期の終わりまで仲良く話していた女の子が、二年の始業式にあたる本日、俺のことをすっかり忘れてしまっていたのだ。彼女だけじゃない。俺を含む数人の生徒を除いて、この高校にいるすべての人間が記憶を失ってしまった。そしてその原因に心当たりがある……そんな世界で俺は一年間過ごしてきたからだ。ヒントならいくらでもあったはずだ。よく思い出せ。あの入学式から今日までのことを何もかも。犯人は俺のよく知るあの――――
「はぁ……」
大通り沿いに延々と立ち並ぶ桜っぽい木々に目をやりながら、「いざ始まると……」などという不安を乗せた、春一番のため息をついた。
学校に向かう生徒たちは皆、薄いグレーを基調とした自分好みの制服を着こなし、黙々とあの大きな校舎に向かっている。
大した期待はしていない。だが、この学校は普通とは違う。
中学時代よりも、少しはましな学校生活が俺を出迎えてくれるかもしれないと、心は微かに動いている。
高校での目標なんかをあれこれ考えながら、やっぱり帰りたいと思いながらも仕方なく人の流れに身を任せ、足早に進む。
正門らしき黒い頑丈なゲートは開かれ、一歩踏み込むと
校舎の正面には立派な樹が一本、その周りには樹を囲むように
正門を超えた俺と校舎の間に立つ、この大きな樹は“一番
空気が重く、皆が緊張しているのが伝わってくる。無理もない。なにせ俺たちはこの学校にとって重要な第一期生なのだから。
動物園のような地図に従って道なりに進み、校舎の下をくぐり抜けると右手に茶色の建物が見えた。今日の入学式の会場だ。
中に入り座席番号を確認する。少し早く着きすぎたかもしれない。
「どこ中学出身ですか?」
はっと顔を上げそっと左右を見るが、どうやら後ろの席の会話だったようだ。
恥ずかしくなり、誰かを探すふりを何回か繰り返す。俺に話しかける人なんているはずもないし、誰も俺のことなんか見ちゃいない。そうだとわかっていても、人目を気にする自分に嫌気がさす。
早く終わってほしい。早く九時になってくれ。いっそ隣の人に話しかけてみるか……
いや、そうしたところで会話を続ける自信はアリの爪ほどもない。話しかけられたら応じればいい。今までもそうやってきた。
おとなしく学校の地図でも眺めていよう。
地図上の
ざわざわした場内に予鈴が鳴り響き、ステージに灯りがついた。
満腹の会場は一気に静まった。
「おはようございます。
式辞のあまりの短さに、斜め下にロックオンしていた目線をくいんと上げた。
堅苦しくてよくわからないお決まりのアレ(桜が満開だの春がうららかだの)などではない。この校長は大当たりだ。生徒が望むものは十分間にも及ぶ聞くに耐えない独り言ではなく、聞き手のいたいけな腰と尻を第一に考慮した手短な一文なのである。
気の利いた校長の振る舞いに感動し、少し元気になった。
式が終わると生徒たちは速やかに教室に向かう。
二階の一番奥にある教室。体育館からかなり遠い場所だ。
内装はいたってシンプルな普通の教室だが、ぴかぴかで綺麗だったから高級に見えた。
「では記念すべき一回目の
後ろから二列目。悪くないな。中学では初っ端最前列の席で最高のはずれくじを引かされたが、この席なら授業中に当てられることも少ないだろう。ちょっと居眠りしてもばれない。良好な出だしといえる。
「では、先生の自己紹介も終わったことだし、次はみんなのことを教えてくださあい、じゃあ一番の子から」
手渡當凌子……
なんて読むんだろうか。いやいや、今はいつの間にか黒板に現れた字を解読している暇はない。最初の難関、自己紹介の時間だ。何を言えばいい?
すでに出席番号五番の人まで順番が回っているが、皆出身地と中学校、部活ぐらいの簡単な自己紹介で済ませている。
この人たちに合わせるのが無難か。いや、少し背伸びして面白いことの一つくらい言った方がいいのだろうか。だが、中学で三年間音も立てず歴戦の忍のように日々を過ごした俺にそんなに高いハードルを越えられるか? 本当の忍なら難なく超えられるな……残念なことに俺が持つ忍びの要素は、こそこそと隠れて息をひそめる習性だけなのだ……!
でも、しかし、やっぱり、この教室に入ってみると思ったのだ。高校からは明るみに出て忍を引退したいという気持ち……せっかく環境が一新し、縛るものが無くなったんだ。変わるならこのタイミングだろう。
「三十四番の子、そんなに怖い顔をして、お腹でも壊しましたかあ? 」
クラスの目線が俺に集中した。
「あ、いえ、なんでもない、ですすいません」
いきなり目立ってしまった。今すぐ逃げ出したい。何かが起こって俺の前で時間切れになってくれ。小さな隕石が校庭に堕ちたり、春先オープン初日の高校にまさかの不審者が入ってきたり。
……そんなことがないのはわかっている。それでも一縷の望みに賭け、じっと耐え抜くのが忍というものだ。ちなみにこの手の希望が叶ったことはない。
……ってこれじゃあ今までと変わらないじゃないか!
とうとう俺の番が回ってきた。後ろの席だと前に出るのに長距離歩かなければならず、その分余計に注目を浴びる。これはなんたる盲点。
できるだけ自然に、首が変な角度にならないようにまっすぐ……
「
噛まずに言えたが、出身地すっ飛ばしたし絶対顔が赤くなった。顔面で温泉卵が作れそうだ。温泉卵はあまり好きじゃないんだが。
部活なんて入る気はない。それでも何か言わないと名前とよろしくだけじゃだめな気がする。
めんどくさがりなくせして、こんなところだけ変にこだわりを持つ男。心中は晴れやかなのだが、それを表に出す方法をいつからか忘れてしまった男……
こんな調子では高校でも俺は変われそうにない。
あー困ったな、なんとかしないと。
「では、これでHRを終わりまあす。三限は職員会議があるので自由時間でえす。この時間のうちに周りの子と仲良くなるんですよお。それから今日は午前で終了なので帰る準備もしておいてくださあい」
やっと終わった。あとは下校時間を待つだけだ。既にヤンチャそうな男子が何人か集まって騒いでいるが、混ざる気は起きない。
隣に話しかけるにしても、話題に困るし……
この一歩が出ない時点で終わってるよな。
「ねえねえ!」
明らかに俺をめがけた声が耳を震わせ、右を向くと隣の女子と目が合った。
クリーム色の髪は肩に少しかかり、毛先はくるんとカールしている。下にかけてふわっと広がったその髪は、すべてを包み込むような柔らかい印象を受ける。
俺に話しかけるなんてなかなか変わった子だな。さっき目立ったのがウケたのだろうか。
「
「あー、赤港久のパッとしない街で……」
「やっぱり! わたしの生まれたところがその近くなのよ!」
「あ、じゃああのあたりのことはよく知ってたりするのか?」
「ううん、小さい頃に遠くに連れてかれちゃったからあんまり覚えてないんだけどね。でも赤港久出身の人に初めて会ったからなんだか嬉しくなっちゃって! 変かな?」
そう言って「ふふっ」と笑う彼女を見て確信した。
まずはぼっち脱却に成功。なんとかこの子とは仲良くなれそうだ。話しかけられさえすれば俺だって、対応手は何年にもわたりいくつも温存してきているのだ。大富豪だったら三回は革命を起こせるほどにな。
頬杖を突き、「あ、飛行機雲だ」と窓の奥を眺める彼女は俺とは違い、輝いているように見えた。
「えっと、名前は……」
「
入学して初めて会話したのが女子、しかもこんなに可愛いらしくて優しそうでなんかなんか、素敵な子だなんて……!
神様はきっと、俺のあまりに薄っぺらい、オブラートのようにぺらぺらな中学生活に同情してくれたんだろう。
もしかすると、この子が神様なのか? 女神様の化身なのか? 燻る俺を太陽の下へ手招きしてくれたんだ。
未来は明るいのかもしれない。
俺は
もちろんのことだが、俺の中学時代の話なんて「行って帰ってきた」くらいの簡潔な一文で説明できるほど容易すぎて花を飾り付ける余裕すらある。むしろ花に主役を盗られるほど中身がない。
なんとか記憶の片隅から掘り起こしてきた手応えのない思い出を話したがすぐに底をつき、途中から俺たちの故郷、
「わたしが引っ越すまで、隣にとても仲が良い男の子が住んでたんだ。その子がすっごく面白くて、なんでも知ってるすごい子だったの! でもある日――」
俺は彼女の話を聴くことに夢中になったし、たいした思い出を持っていないことに気づかされ心に非表示のダメージを受けた。
こんなに人とたくさん会話したのはいつぶりだろう。
ただとにかく、この時間が楽しかった。
「じゃあ、また明日ね!」
「ああ、またな」
高校では俺の人生が変わる。いや、変える。変えられる。そんな予感がする。普通ではないこの学校だからこそ、良くも悪くも……
明日からの高校生活が楽しみになった。
まだお昼時の放課後、一人青一色の下、軽い足取りで男子寮へと向かう。
――人生が変わるという予感は当たっていた。しかし、これから俺を待ち受けるありえない現実、その裏に隠された大きな陰謀までは知るはずもなかった。ただ単に現実を過ごした、一日足らずの学校生活。
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