第2話 風の吹く丘

帷子かたびら学童院が建っている丘は、昔は果物なんかを育てていた農場だったらしい。

 今では地上に降り注ぐ日光も少なく、まともに生えるのは雑草や日陰でも育つ野菜くらいだ。


「よく寝れたか?」


 つまらない予行練習を後にして、体育館を出る僕たちに笑いかける一人の男。

 短い髪を上げた筋肉質で体育会系の中年には、その薄気味悪いにやけ顔は不相応だ。


「教師としてその発言はどうなんだ」

「いつ俺がお前の教師になったよ」

「現在進行形でそうだろうが!」

「お、ナズナちゃん。今日はどこに行くんだい」


 僕が噛みつくのを気にも留めず、男は目線を外して手を振る。

 その先には、その先には走ってやってくるナズナの姿があった。


「カズラおじさん! これからキッカに付き合ってもらって町までおつかいに行くんだ」

「そうか、しっかりエスコートしてもらわねえとな」

「何がエスコートだよ、片道1キロもないぞ」

「1キロ無言で歩くなんてつまんないこたぁ、男としてさせられねえだろ。なあ?」


 うざったい言い回しをするこの男は、学童院に昔からいる男性教諭のカズラ。

 学童院と言いながら、孤児院や託児所も兼ねているここには、常在の教師も存在する。

 といっても、この男の主な仕事は子供たちの外遊びの監視で、教師らしい仕事などあったものではない。

 

「早く行こう、ナズナ。夕方から雨が降るらしい。初夏とはいえ遅くなったら冷えるぞ」

「おい、キッカ。その前に」


 まだ何かあるのか?と言わんばかりに、わざとらしくカズラに向き直る。


「そんな邪険にしなくてもいいじゃねえか。まあいいや……ええとな、

 この間見せてもらった論文だが。よく出来てたよ」

「それはどうも」

「それでだな、試しにこれをに出してみたらどうだなんて話が学長から――」


 耳を疑った。僕の論文が雲の上に出るなんて、それは願ってもないチャンスだった。


「いいの!?」

「お、おう……食い気味だな」

「出してもらえるなら、なるべく早く!」


 カズラの話を遮ってまで肯定の意を示す。

 僕がここまで意欲的になるのには理由があった。


 上の世界では特に雲や太陽の環境問題への意識が高く、

 下の世界、つまり僕たちの住む地上ではできない研究や、

 地上の環境を改善するための実験が日夜行われている。

 僕は幼い頃から、その研究や実験に参加することを目標としてきた。


 また、地上からやってくる人間は雲上に到着した際に必ず検査を受ける。

 恐らく地上と雲上の人間のデータを比較するために行っているのだが、

 僕には雲上の研究者よりも内容の濃い、いわゆる「生きた」データが多いと自負している。

 地上に住んでいるため被験者が身近というのは当然として、

 自分自身を実験サンプルとして扱えるという点はかなりのアドバンテージだ。

 もし論文が通れば、地上にいるうちに、つまり身近にサンプルがあるうちに

 雲上の最新機器を使った研究に携われる可能性がある。


 まあ、簡潔に言うと、ここにいるうちから研究を始めたいのだ。

 現状では道具も情報も限界があって、それがあればこの論文にだってもっと役立てられるはずだ。


「やる気なのはいいことだな。とりあえず、提出にあたっていくつか追加する要項が……」

「キッカ、長くなりそう?」

「あ、ナズナ。悪いけど……」

「おいおい、ナズナちゃんをほっとくほど切羽詰まった話じゃねえよ。

 期限は定期便の来る来週の月曜まで。お前なら余裕だろ。

 それまでにまとめておくから、帰ってきたら手を付ければいい」

「そっか、ありがとう」

「おう、分かったらさっさと行った行った」


 そっちが呼び止めたくせに、という文句を押し込めて、僕とナズナは学童院を出る準備を始める。


「それで、今日のおつかいは何だ? 頼まれごと?」

「ふふ、内緒だよ」

「なんだそりゃ」


 紙幣に小銭、水筒と保冷鞄を大きなバックに詰め込んで自室を後に外に出る。


「ちょっと肌寒くなってきたな」

「うん。でも、ちょっと遅くなっても大丈夫だよ。上着も持ったし」

「まあ、できるだけ早く帰ってこよう。みんなも心配するしな」

「……うん」


 ナズナの少し含みのある返事が気になったが、特に詮索することもなく丘を降り始める。


「ねえ、キッカ」

「うん?」

「もし、もしさ。その、ええと」

「なんだよ、早く言えよ」

「私が雲の上に行きたくないって言ったら、どうする?」

「……どうするって、お前」

「いや、やっぱり何でもない! 忘れて!」


 たはは、と取り繕うような笑顔を張り付けたナズナの顔。

 その顔の裏を、僕はいつも読み解くことができない。


「もしかして、本当に行きたくないのか?」

「ううん、そんなことないよ。楽しみなのは一緒。でもね」


 思いつめた顔には見えないが、それでもその顔は真剣だった。


「ここにいた方が幸せだった、ってこともあるのかなあって」

「上の生活が想像できないからじゃないか?」

「うん、でもそれだけじゃないの。いつか、キッカがどこかに行っちゃうような――わっ!?」


 突然眼前から吹き付けた強風に、僕たちは顔を背ける。


「今のはすごかったな……ナズナ?」

「帽子、とんでっちゃったあ!」


 後ろを振り返ると、ナズナの麦わら帽子がふらふらと宙を舞っていた。


「やべっ、追いかけろ!」

「わーーっ! あはは!!」

「……楽しそうだな」


 どうやらあまり深く考える必要もないようだ。

 そう自分の中で区切りをつけて、僕たちは丘の下の町へ向かった。

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