19. 世界で一番かっこいいお兄ちゃん

 自分のためにしてくれたことには感謝しかない。けれどそのせいで、お兄ちゃんの一生に癒えない傷を与えてしまった。だから感謝と同時に悲痛のようなものがある。

 だいたいそんなことを、当時、妹は言っていた。


 ぼくは、自分が暴力を働いたことを「癒えない傷」だとは思わなかった。これから先の生き方によっては、うまく自分の人生に位置付けられると考えていたからだ。


 しかしぼくは、ぜんぜん器用ではなくて、あの一件は、ほんとうに「癒えない傷」になってしまった。


 いま目の前に、ジュクジュクとんだ傷が広がっているのを見ると、もっとうまいやり方があったのではないかと後悔してしまうし、ぼくはなぜ、これほどまでに苦しまなければならないのだと、恨めしい気持ちにもなる。


「お兄ちゃん……文化祭にさ、一緒にいかない? わたしも、屋台とかバンドとか、いろいろ見たいな」

 やめとけ。あの「悲痛」を感じるだけだぞ。ぼくもいま、「癒えない傷」に苦しんでいるんだ。


「お兄ちゃんたちの漫才も見たいなって……」

 まだ家にいること、それが答えなんだよ。それくらい分かってもいいんじゃないか。


「さっきね、お兄ちゃんの友達……良彦くんから電話があってね、今日はになるから見にいってほしいって」

 あいつ、なんで妹に手を出してんだよ。

 ヘンな笑いがこみあげてきたけれど、口から出ることなく肺の底に沈んだ。


 良彦も大紀も、文化祭には間に合わなかった。けっきょく。それでいいよ、栗林さんはもう、漫才を捨てたんだから。


「今日、すごくたくさんの人がくるから、はやく良い席を取らないといけないって」

「……そんなわけないだろ、ぼくたちの漫才のために人が集まるなんてないよ」


 屋内の舞台での、長白河ながしらかわたちの演劇の方には人が集まるだろうけど。

 他校の女子たちがわんさか集まって、黄色い声援を投げかけるだろうさ。


も『わたしの妹が漫才をするから見にいってね!』ってSNSで言ってたし」


 え? なんで美月みづきさんのことを知っているんだ?

 その疑問を素直に投げかけると、


「お兄ちゃん、美月ちゃんを知らないの? モデルさんだよ?」


 モデルさん? モデルさんなの? マジで?

 でも、なんとなくそんな感じのする人だった――って、美月さんは、なんでそんなことを投稿したんだ? 栗林さんが家から出ないことなんて、知っているじゃないか。

 ぼくへの嫌がらせなのか? 彼女の気分を害することでもしただろうか?


「お兄ちゃん」

「…………」

「お願いだから、連れてって」

「行きたかったら、ひとりで行きなよ」

「やだ」

「やだって……子供じゃないんだから」


 良彦も、知っているんだろう。ぼくたちが「解散」したことを。だって、良彦に情報が届く回路は、思ったより多そうだし。

 それにしても、なぜみんな、に賭けているんだ?


「良彦……ほかになんか言ってた?」

「大紀くんと一緒に、ビデオ通話で見るって。担任の先生に頼んであるからって」

「…………」

「お兄ちゃんは、強くて、かっこよくて。だから、わたしは好きなんだよ」

「…………」

「だから――」


 深呼吸をしている。窓にうつるぼくが。泣くなよ。いまから、ぼくにできることを、するんじゃないか。


「学校の場所、分かるだろ。ひとりで行ってくれ」


 心配そうな顔をしている妹の顔も、窓の中にうっすらと映っている。


「1時半が、ぼくの――ぼくたちの出番だから」


 妹は小さく頷いた。


「がんばって、世界で一番かっこいいお兄ちゃん」


 もう十時半になろうとしていた。

 家を飛び出ると、まばゆい太陽にまぶたがじんじんとした。

 走った。走りながら、最後の電話をへとかけた。

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