11. カルボナーラとボロネーゼ
彼女の「やれ」という命令で、後ろから親衛隊たちが一斉に飛びだしてくるところを想像していたのだけれど、男たちは号令がかかる前にそれを聞いたかのように、一目散に逃げていった。そして、ミスコンの優勝者であることを誇らしげに
「四条くん、行きましょう」
ずっと黙っていた栗林さんは、この輪の外へと抜けだそうと足を進めた。
「ちょっと、栗林さん。まずは、お礼とかしなきゃ」
こちらを見ることなく人だかりに消えていこうとする栗林さんの右手を、ぎゅっと
「芽依!」
彼女の下の名前を呼んだのは、もちろんぼくではない。ぼくではないのに、彼女はそれを拒絶した。栗林さんの手をすっと放してしまった。そのとき、彼女の身体が少しだけ震えた。なんで放してしまったの?――ぼくがぼくに問いかけたわけではない。ぼくが見出した、彼女がぼくへと向けたメッセージ。
「芽依! 彼ピッピを放ってどこへ行くのよ!」
栗林さんは、「彼ピッピじゃない!」という怒った声すら押さえつけて、振り返らずに下を向いて、人だかりに紛れこんでしまった。
そんな彼女を見て、「また、からまれたらどうするんだ?」という怒りを、やりきれない気持ちのなかに隠し持ってしまったぼくは、ほんとうにズルいと思う。
* * *
「きっと恥ずかしかったんだろうね。悪いことをしちゃったかな。でも、ああでもしないと追い払えないじゃん」
「ほんとうに助かりました。ぼくだけだと、どうしようもできなかったので」
ぼくたちは(ぼくは聞いたことのない名前の)レストランの奥の座席で向かい合い、カルボナーラとボロネーゼがくるのを待っていた。それを遠巻きからがたいのいい大人が見張っている。
学校の外では、彼女にはボディーガードがついている。ということは、ぼくには手の届かないところにいるひとなわけだ。そして、栗林さんも元々はそういう存在だったのだ。
「ほんとそれ。四条くんだっけ、なんか虫を殺すこともできなさそうな感じだし、でも苦虫は喜んで食べそうだし、泣き虫だし、お邪魔虫だし、茶碗蒸しだし……」
「ひょっとして、『むし』のつく言葉で大喜利をしてます?」
「『だし』で韻を踏んでもいたり? それじゃ、『だし』で韻を踏む山手線ゲーム。わたしから、鰹だし」
「ええと、昆布だし」
「だしの種類かぶりは無しだし」
「これ『だし』を語尾にすれば、無限にできません?」
「山手線ゲームって、だれかが間違えることを想定しているものだから、回答は有限であるという前提、もしくは人は答えをすべて導きだせないからエラーを起こすという真理が含まれているわけで、だとしたら、無限に続くなんてありえないんだけれど、四条くんは、反デカルト主義的な手続きなしに、認識論的に反証できるのかしら?」
「ええと……赤だし」
「赤だし? わたしも好き。じゃなくて、わたしのボケを流さないでよ。ツッコミなんでしょ」
「なにを言っているのか分からなくて……ごめんなさい」
「謝らなくていいわ。わたしもよく分かんないし。なによ『反デカルト主義的な手続き』って」
「自分で言ったんですよね!」
カルボナーラとボロネーゼが運ばれてきて、伝票が栗林さんのお姉さん――
「芽依と一緒のときは、四条くんのところに伝票が置かれるようになってね」
美月さんは、粉チーズを手に取った。ウインクをした。ボロネーゼのソースがかかったみたいに顔が赤らんでいる――と、美月さんにからかわれた。
ぼくは恥ずかしくて、緊張で震える手をなんとかコントロールしながら、できるかぎりの上品さを意識してフォークとスプーンを動かした。
「このお店のパスタ、おいしいでしょう?」
「はい、とても」
「よかった。今日はわたしの奢りだから」
「えっ、そんな……」
「ううん、いいのよ。四条くんには感謝しているんだから。芽依はね、この一カ月くらい、楽しそうな表情をしているの。きっと、あなたのおかげ」
「ぼくはなんにも……」
「ううん、四条くんがそばにいてくれるおかげよ。だからさっきは、本当に悪いことをしたな、芽依には」
こんな会話をしながら、栗林さんに向けて、どこでなにをしているのかというメッセージを打った。美月さんに、こっそりと。ふたりきりの食事中にスマホを触るのは、失礼な気がしたから。
《わたし? わたしはレストランでカルボナーラを食べてる。四条くんと一緒に》
――宛先を間違えたじゃないか。ばか。美月さんの連絡先を「栗林さん」で登録するなよ、ぼく。
「四条くんって、こういうおちゃめな部分もあるんだね」
「ほんとうにごめんなさい!」
「でも、四条くんなら、芽依のことを少しは任せられるなって思ったわ」
そう言って美月さんは、十月の中旬の秋空にぴったりな、穏やかで優しい笑みを見せた。
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