06. ぼくはひとを殴ったことがある

 言葉による暴力と身体的な暴力のどちらがつらいかを弁じることが、どれくらい愚かなことかということを、担任の先生は得々とぼくに聞かせてきた。でも、机に「死ね」「消えろ」と書かれることと、そういうことを書いた人を殴ることとを分けて考えることまでもが愚かではないと思って、停学中、カーテンを閉め切った自分の部屋のなかで、わりと冷静に思考をめぐらせていた。


 ぼくの机に花瓶が置かれていたことは、言語的でも身体的でもない暴力の表現だし、書き言葉と話し言葉では、なにか決定的な違いがあるような気がする。そういうことを必死に考えた。


 なんで考えなければならなかったのかといえば、ぼくがひとを殴ったのは、人生においてまだ一度きりだったからだと思う。動揺していたのだ。自分のしたことの意味をちゃんと明確にしないと気が済まなかったのだ。


 母さんは、優理ばかりが悪いわけではないと気を遣っていた。妹は、ありがとうと言っていた。


 丁度、引っ越しが決まっていたときだったというのも、ぼくを苦しめた。そういうことを考えるための場所を、失ってしまうからだ。ひとを殴ったということの意味とその動揺を調停しないままこの街を去ることは、不誠実なことのように感じてしまった。隣県に行くならよかった。同じ県の南から北に移るという、ほんのわずかな引越しというのも、あの事件を楽に清算することができない理由になってしまった。


     *     *     *


「四条くん、聞いてるの?」

 視界を覆っていた約一年半前の記憶は、瞬く間に晴れて、栗林さんの大きな瞳がぼくを射抜いているのが、しっかりと見えた。

「ごめん、ちょっと考え事をしてた」

「良い案を思いついたの?」

「うん……」


 煮え切らない態度に、なにかを察したのか、ぼくをなじることなく栗林さんは話を進めていった。大きな松の木の影が、いまにも雨になりそうな午後をよりいっそう湿って見せている


「観客の人たちに共感してもらわないといけない、ということを考えると、学校を舞台にしたミニコントというのも有りうる選択肢だと思うけど、やっぱりになってしまうし、わたしたちが漫才にするには、ありきたりって感じがする。だから、1年生のときに必修だった世界史Aのなかの、どこかの時代を選んで、そこからネタを作っていったらどうかって……ここまではいい?」


 つまり、ぼくが持ってきた学校を舞台にしたミニコントを入れ込むというアイデアは、棄却されたということだ。といっても、ぼくたちは引っ越し組なのだから、この学校の世界史Aの授業を受けていない。


「この学校で使っていた教科書と、わたしの前の学校で使ってたものとは一緒じゃないらしいけど、ここの教科書を無花果いちじく先生に借りて突き合わせればいいと思う」


 ぼくの懸念を読み取った栗林さんは、そう提案してくれた。


「ところで四条くんって、教科書に落書きをするタイプだった?」

 突然の問いかけ。どういう意図があるのかは分からない。

「意外だけど、マジメにちゃんと授業を受けてた」

「《意外》の意味がわからないけど、わたしとは違ってちゃんとしてたんだ」

「えっ、栗林さんは教科書に落書きするタイプだったの?」

「なんで? 悪いの?」


 ぼくのなかの〈栗林芽依像〉がちょっとだけ修正される気分だった。


「よくある落書きよ。フランシスコ・ザビエルに栄養剤を持たせてあげるやつ」

「聞いたことないんだけど」

「フランシスコ・ザビエルは、きっとお疲れだろうから」

「まあ、異国の地での伝導って想像できないほど大変だろうね……って、ほんとに落書きしてたの?」

「フランシスコ・ザビエルのファンアートを描いたこともあるわ。SNSにハッシュタグを付けてアップした」

「その熱量はどこからきてるの? あと、フランシスコ・ザビエルってフルネームで呼び続けるひと、初めて見たんだけど」

「配信も見てるし、投げ銭もしているわ」

「ザビエルって配信者なの?」

「FPSが得意で、ほとんどのゲームでランカーなのよ」

「桶狭間の戦いで活躍できそうですね!」

「なに言ってるの? 現実と妄想の区別がつかない子なの?」

「栗林さんもね!」


 職員室に聞こえかねない今日一の声量になってしまった。


「ごめんなさい」

「うん。たしかに、いまのはツッコミというより――」

「違うんだ。いまのやりとり、栗林さんにちょっと失礼な感じがしたというか……」

「漫才って、こういう感じじゃないの? 気にしてないわ。というか気づいていないのかしら……わたしたち、ため口で会話をするようになっていたことに」

「うん、それは気になってたんだけど、あまりに自然にそうなっちゃってたから……」


 栗林さんは、口元に手を当ててくすくすと笑いはじめた。ぼくも思わず吹き出してしまった。


 それにしても、いまの即席の漫才を録音しておけばよかった。急だったからそんな暇はなかったわけだけれど、ボケを活かしたツッコミになっていなかったと思う。長ったるいし、ワードセンスもない。


「ふたりとも、うるさくするんなら、もうこの部屋を貸さないわよ!」


 突然顔を出した無花果先生は眉をひそめてそう言った。やっぱり、最後のあのツッコミは、職員室にまで届いていたらしい。

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