3章「悪霊」

 北大路天音は塾の帰り道、雨が降り注ぐ夜の中を、バス停へ向かって呑気に歩いていた。この女は俺を騙していたんだ。そう考えると無性に腹が立って、俺は傍にあった自販機を蹴りつけた。ガシャン、と大きな音が、傘が雨を弾く単調な音だけが続く静かな夜の街に、不気味に響いた。天音は怯えたかのように辺りを見回して、足を速めた。


 自分でも、酷いことをしているのは分かっている。だが、抑えることが出来ない。今まで俺が天音に注いできた愛情の分だけ、俺は天音を憎まなければいけない。俺は絶対に天音を許さない。命を奪ったって構わない。俺は感情のまま、天音の前に姿を現した。憎しみをぶつける為に。


「だ、誰…?」


 恐る恐る、天音は俺を見た。まるで、知らない人を見るかのように。そして悲鳴を上げた。


「お、お化けェ…。」


 天音は慌てて逃げ出した。俺はショックだった。確かに俺は幽霊となった。死んだはずの人間が、目の前に現れたら驚くのは当然だ。だが、何もあんな風に言わなくたっていいじゃないか。少なくとも、俺の名前ぐらいは呼んで欲しかった…。俺はその場に呆然と立ち尽くしていた。あんな態度を取られるとは予想だにしていなかった。


 しかし直後、その理由が分かった。真っ黒なガラスに反射した、ぼんやりと映った自分の影は、醜い悪霊に変わっていたのだ。額からは大きさの異なる二本の歪んだ角が突き出し、口からは長く伸びた犬歯がむき出しになっている。両手の爪は長く伸び、体はこの世の物とは思えない程青白く光っていた。


 何で、何でだよ…。雨の中一人取り残された俺は、呻き声を上げた。こんなことになるとは思っていなかった。こんな姿にはなりたくなかった。こうなったのは、誰のせい…?


 北大路天音、お前のせいだ。お前のせいだ。お前のせいだ。言葉がぐるぐると頭をよぎる。もう止まらない。戻れない。俺は…。地面を覆った雨水は泣くようにして側溝を這い、下水管へと流れて落ちていく。


  ○ ○ ○


「昨日の夜、お化け見た。」


 次の日の学校からの帰り道、北大路天音が呟いた。俺は姿を消し、二人の背後に憑いている。


「え、嘘?」


 天音の彼氏が言う。


「塾の帰りに、歩いてたらいきなり出てきて…。ほんまにビビった。角が生えてて、めっちゃ怖かった。」


「それマジで言ってる?」


「私がわざわざこんな嘘つくと思う?」


 どの口が言ってるんだよ。お前は俺を騙していたくせに。悔しさが溢れてくる。思わず俺は落ちていた小石を蹴った。小石は二人の前へと飛んでいき、電信柱にコツンとぶつかって止まった。


「ほら、今誰もいないのに、後ろから小石飛んで来なかった?」


「気のせい気のせい。嫌な夢は忘れるに限るよ。明日学校休みやから、どっか行こ。」


「それもそうだね…。じゃあ、嵐山とかどう?」


「いいね!」


 天音の彼氏は笑顔で頷いた。その後も二人は会話を続け、いつもの分かれ道の所で別れていく。そこから天音はバス停に向かって歩いて行く。見失ってなるものか。俺は完全に天音に取り憑いた。取り憑いていればわざわざ追わなくても勝手に魂が移動してくれる。幽霊の身体はこんなことも出来るのか。感心しながら俺は眠りについた。


  ○ ○ ○


 深夜、目を覚ました時、俺は暗い部屋の中にいた。傍では、天音がベットに横たわってスマホをいじっている。


「北大路天音、お前だけは許さない。」


 俺はボソッと呟いた。スマホを触っていた北大路天音は、布団の中でビクッと肩をすくめた。


「ねえ、誰なの…。昨日からずっと私を見てるんでしょ?」


 ああ、見ていたさ、お前に復讐を果たす為にな。


「騙してたんだろ、許さない…。」


 怒りと憎しみで全身が震える。


「私、体調悪いのかな。明日は嵐山行くのに…。」


 天音も震えていた。一瞬、罪悪感が湧いた。一度は愛した人だ。恐怖に陥れる自分を客観的に見た時に、昔の俺はどう思うだろうか。だがそれをなんとか押し殺す。今の俺は悪霊だ。呪い、復讐するのが本業だろ?そう自分に言い聞かせる。それにこいつは俺を騙していたんだぞ。謝るならば天音の方からだ。


「ねえ、教えてよ。私、なんか悪いことしたの?」


 天音の目には涙が浮かんでいた。俺にはその涙の理由が解らなかった。こいつ、自分が悪いことをしていた自覚すら無いのか?


 悔しかった。俺はただただ純粋な気持ちで天音を愛していたし、愛されていると思っていた。でも、それは偽物の恋愛だった。俺は天音の手のひらの上で転がされていただけだった。おまけに、当の天音本人は、それを悪いことだとすら思っていない。憎悪の感情が高ぶり、俺はいつの間にか姿を現していた。悪霊としての、醜い姿で。


「あなたは、き、昨日の…。」


 声は震え、恐怖で固まっている天音に、俺は怨みの言葉を吐き続けた。


「許さない、殺してやる、殺してやる…。」


 俺は、部屋に置いてあった物を、手当たり次第に天音に向かって投げつけた。教科書、文房具、漫画、時計、衣類、その他諸々…。部屋を物が飛び交い、ガチャンガチャンと音を立てる。


「やめて、お願い…。ねえ、私、なんか悪いことしたの…?」


 頭を押さえながら天音は泣いていた。わずかに残った理性が働いたのか、俺は無意識のうちに手を止めていた。でも、許したわけじゃない。ここまで来たら、もう後戻りは出来ないんだ。天音の声と物が飛び交ってぶつかる音を聞いて、天音の両親がこちらに向かって廊下を歩いて来る足音が聞こえ、俺は姿を消した。俺がこの世にいられるのも、あと一日。明日こそ絶対にお前を殺す。例え地獄行きになったとしても…。

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