1章「幽霊」

 気が付くと、俺はあの路地に立っていた。路地には誰もいない。東の空が、青紫色に染まっている。どうやら朝方のようだ。俺が倒れていた場所は、何事もなかったかのように空き缶などのゴミが散乱している。随分と時間が経ったのだろうか。背中の痛みも消え、身体が随分と軽く感じる。俺は、死んだはずじゃなかったのか…?いつもの仕草で腕時計を見ようと左腕を確認した。しかし、そこには薄っすらと腕の幻影が残るだけだった。慌てて体中を見回して、やっと異変に気づいた。まさか、幽霊になっている…?


「目覚めたか。」


 その時、背後で声がした。どこかで聞いたことのある、厳かな声。振り向くと、そこには足が三本の、真っ黒で大きな烏がいた。


「八咫烏…。」


 俺は思わず呟いた。間違いない。前に見た時は意識も朦朧としていたから、本物とは思わなかった。けど意識がはっきりしている今、何度確認してもその鋭い爪を持った足は三本ある。


「俺は、どうなっているんだ、死んだはずじゃなかったのか…?」


 俺は慌てて八咫烏に尋ねる。


「契約通り、お前を復活させてやったぞ。」


「契約…?」


「お前が望んだことだろう。忘れたのか?」


 思い出した。俺が御所で八咫烏に会った日、俺は八咫烏と契約を交わしたのだ。死んでから四十二日後、七日間だけこの世に戻って来ることが出来る、と。あの時は適当に聞き流して、何も考えずにそれを聞き入れた。


「タイムリミットは一週間。それまでに、現世でやり残したことを出来るチャンスを与える。何をしようがお前次第。ただ、死後四十九日が経った日、つまり命日の四十八日後には来世での在り方が決定する。それを念頭に置いておけ。」


 つまり、最後の日に来世での俺の在り方が決まる、ということか。なんだか難しい話だが、やり残したことはあるから丁度いい。俺を殺した奴を知りたい。そしてもう一度、天音に会いたい。


「でも、何で俺なんかにチャンスをくれたんだ?」


 疑問が湧いて来る。他にも人間は山ほどにいるのに。


「お前がこうやって死ぬことは分かっていた。これは余りにも理不尽だ。だからチャンスを与えた。」


 なるほど、案外優しい理由だ。それなら、そのチャンスを思う存分使うだけだ。


「霊となったお前の身体は、生前出来なかったことが出来るようになっている。生かすも殺すもお前次第。私からは以上だ。」


 カァと鳴き声がし、八咫烏は消えていた。漆黒の羽が辺り一面に舞っている。


  ○ ○ ○


 身体を透明にして、市内を飛び回る。空から見た京都は、正に碁盤の目だ。今日は俺が死んでから四十二日後、と八咫烏は言っていた。とすると、今は九月下旬。残暑がようやく落ち着いて来る頃だろうか。幽霊の身体では気温を感じない。自分が死んだことを実感し、少し寂さを感じた。


 まずは、俺を殺した奴を知りたい。どこにいるんだ?俺は空中から街を見るが、分かるはずも無い。探したくても探しようが無い。既に逮捕されているのだろうか。手がかりを見つける為、俺はさっきの路地へと戻った。


 人影の少ない所で、俺はそっと姿を現す。便利なものだ。こうしていれば、怪しまれずに人間社会に溶け込める。俺と同じように、八咫烏によってチャンスを与えられた人は、これまでも沢山いたのだろう。それが所謂、幽霊伝説となって現代まで語り継がれてきているに違いない。そう考えると、そんな長い歴史を持つ怪談の最先端を生きているような気がして、妙に気持ちが高揚した。今の俺なら何でも出来るような気がした。だが、太陽の光が眩しくて気分が悪い。幽霊が日の光を嫌う理由が嫌という程実感できる。暫く日陰で休むとするか。俺は透明になって物陰に隠れた。


  ○ ○ ○


 目を覚ますと、辺りは暗くなっていた。だが流石は京都一の繫華街、人は多い。俺はそっと姿を消したまま、目の前にあった居酒屋へ忍び込んだ。


 数人の客が、店主と話をしている。店主は料理をしながら話していて、客を見ていない。しめた。俺はまるでそこにずっと居たかのように、店主に語り掛けた。


「なあなあ、先月この辺で起きた通り魔事件の犯人って、結局捕まったんだっけ?」


「あー、まだやと思うで。証拠も全然残ってへんかったからなあ。」


 皿を洗いながら店主は言った。なるほど、まだ捕まっていなかったのか…。俺は壁をすり抜けて路地に出た。警察も見つけていないなら、俺が見つけてやる。幸いなことに、あいつの顔は鮮明に覚えている。


 ただ、店主の言う通り、証拠が少ないのが悩みの種だ。どこから手を付ければいいのやら。残念なことに、俺は監視カメラの映像を見る方法も、警察内部の情報を探る方法も知らない。推理と直感で何とかするしかない。しかし幸運なことに、幽霊になったおかげで直感が鋭くなっているように思える。何となく、犯人はこの近くにいるような気がする。


 何か分かるまでは別のことをしておこう。この世にいられるのはたったの七日間だ。俺は街中を歩きながら、天音のことを思い出していた。あいつ、今頃どうしているだろうか。あいつだけじゃない。家族も、友達も、俺が死んだことを聞いてどんなことを思っただろうか。そう思うと、未練が次々と浮かび上がってきた。そして、俺を殺した奴を知りたいという復讐心がムクムクと大きく膨れ上がって来るのを感じた。


 そういえば、家族にお礼も言えないまま死んでしまったな。両親は、妹は、今頃どうしているのだろうか。俺は家に向かった。


  ○ ○ ○


 住宅街に建つ、普通の一軒家に着いた。表札には、おしゃれなフォントのアルファベットで「KUZE」と書かれている。暗い夜の中、近くに立ち並ぶ家々の窓から灯りがこぼれている。俺の住んでいた家も同じように灯りが点いている。みんな元気にしていたらいいな。俺は姿を消し、窓からそっと家の中に入った。


 父と母、妹が食事をしている。妹が中学校の文化祭で、フライドポテトを作るという話をしているが、どこか淡々とした雰囲気が拭えない。まるで、沈黙が気まずいから無理矢理会話を進めているようだ。


「お兄ちゃんがいたら、来てくれてたよね。」


 妹がそう言った。両親は優しい微笑みを浮かべて頷いた。その時突然、俺の中に単純な言葉では言い表せない感情が込み上げてきた。


「お兄ちゃん…?」


 妹が俺を見て、箸を落とした。顔には驚きの色が浮かんでいる。いつの間にか、無意識のうちに俺は姿を現していた。


「戻って来たの…?」


 夢を見ているかのような顔をして、妹が言った。


「ごめんな、心配かけて。」


 俺は家族をゆっくりと見て言った。家族の表情からは、温もりが溢れるほどに伝わって来る。父が優しい声で語り掛けた。


「俺達は、絶対にお前のことを忘れないからな。」


 父の目には涙が浮かんでいた。父が泣いているのを、俺は初めて見た。


「生まれてきてくれてありがとう、大智。あなたと生きた人生は、宝物だった。」


 母も泣いていた。いつの間にか、俺も目に涙を浮かべていた。冷たい幽霊の身体に、温かい温もりが染みていくのを感じた。


「こちらこそ、今までありがとう…。」


 俺は礼を言った。俺は愛されていた。幸せな人生だった。そう思えた。電球が一つ消えた部屋で、俺たちはずっと、泣きながら微笑みあっていた。

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