愛と憎悪の路地を食う

日野唯我

プロローグ

 八咫烏を見た。


 暑い夏の昼下がり、青々と茂った木々の隙間から、じりじりと照り付ける日光の木漏れ日が、砂利が敷き詰められた地面にまだら模様を描いている。俺は砂利の海の中にぼんやりと残る、土が剝き出しとなった細い小道を歩いている。時折そこを、自転車が砂利をかき分けながら通っていく。ここは京都御所。ここで俺はこの前、八咫烏を見た。


 あの日も今日と同じように暑い日で、俺の意識も朦朧としていた。それ故に、足が三本あるように見えたのも、烏と話した内容も、そもそもそれが俺に話しかけてきたのが現実なのかどうかもよく分からない。だから、俺はそこまで気にしていなかった。確か、死んだ後に何かいいことをしてやるみたいな話をした気がするが、あまりにも現実離れしていたから、適当に聞き流していた。


 もう一度八咫烏に会えないかな、と何となく思いながら、俺はただただ広い御所を歩いていく。俺は久世大智。いかにも普通の高校生男子、といったところだ。府内の高校に通い、特に目立つことも無く、平凡に人生を生きている。そんな俺だが、先日楽しみが増えた。彼女が出来たことだ。名前は北大路天音。俺と同じ高校に通っている。俺が告白したところ、両想いだったことが発覚。断られる理由もなく、そのまま付き合うことになった。そして今日、付き合って初めてのデートに行く。集合は三時半に烏丸御池。市内を走る二本の地下鉄が交差する駅がある場所だ。張り切りすぎて少し早く家を出てしまったので、道の途中の御所で時間潰しをしている。また、あの八咫烏を見れないかという期待を少し抱きながら。これまでも御所の傍を通りかかる度に八咫烏を探してみたりした。だがあの日以降、八咫烏には出会うことは無かった。


 そろそろ出発した方がいいな。腕時計をチラリと見て、俺は御所を出た。京都市を東西に貫く丸太町通りを少し西に行った所に、烏丸丸太町という交差点がある。そこを南に下って行けば、愛しの彼女が待っている目的地、烏丸御池だ。「下る」というのは京都市民特有の表現で、南へ行くことを意味する。反対に、北に行くときは「上る」だ。東西方向の言い方は、俺は知らないし、聞いたこともない。烏丸丸太町から烏丸御池間は地下鉄を使うことも出来るが、一駅なことと、京都市営地下鉄は運賃が高いこともあり、俺は徒歩を選択した。


  ○ ○ ○


「大智君、こっち!」


 烏丸御池の交差点に立つと、遠くで手を振っている人影が見えた。天音だ。まるで天使のように可愛い。


「ごめん、待たせた?」


「ううん、私が早く来すぎただけ。」


 時計を見ると、まだ三時二十分。集合時間の十分前だ。俺も八咫烏なんか探さず、もう少し早く来ればよかったと反省する。


「じゃあ行くか。」


 俺の言葉に天音は軽く頷き、俺と天音は歩き始めた。今日は楽しい一日になりそうだ。


  ○ ○ ○


「今日はありがとう。またね!」


 天音はそう言ってバスに乗り込んだ。天音の家は京都の南側にある。俺の家は北側なので、帰る方向は真逆だ。バスに乗り込んだ天音を見送り、俺は歩き出した。今日は楽しかったな。午後九時の四条河原町を、建物の明るい光が眩しく照らしている。それにしても人混みが凄い。徒歩で帰るつもりだが、この調子では人混みに足を取られて遅くなってしまう。俺は通りから一本外れた、暗くて人の少ない路地に足を踏み入れた。それが、俺の運命を分けることになるとは知らずに。


 曲がり角を通り過ぎた時、突如背後から鋭い衝撃を食らった。背中に激痛が走り、俺はその場に倒れこむ。どうやら背中を刃物で刺されたようだ。声を出す力も湧かず、どんどん意識が遠のいていく。服は俺の血を吸い、傷口に重く纏わりつく。残る力でなんとか振り返ると、包丁を持った見知らぬ男が、狂ったような顔をして突っ立っていた。通り魔か…。貧血で、目の前が徐々に暗くなっていく。俺は死ぬんだな、と実感した。ああ、短い人生だった。人生というのはとても理不尽で、未練がましい。こんな酷い目に遭った俺は、天国に行くのだろうか…。ゆっくりと目を閉じた。これが、俺が死んだ時の話だ。

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