第061話「泣いてもいいんだよ?」

「…………はッ!?」


 俺はベッドから飛び起きると、荒い息を吐きながら辺りを見回す。そこはいつもの雫と俺の部屋だった。


 窓から差し込む夕日で、部屋の中はオレンジ色に染まっている。どうやら、いつの間にか眠ってしまっていたらしい。


「汗……びっしょりじゃねぇか……」


 ただでさえ魔力の鍛錬で汗だくになっていたのに、悪夢を見たせいで、まるで大雨にでも降られたかの如く全身がびしょ濡れになっていた。


「……シャワー、浴びないとな」


 俺には超免疫があるから、風邪は引かないけど、このままだと汗臭いし、気持ち悪い。


 タンスから着替えを取り出して、風呂場に向かう。汗まみれの服と下着を洗濯機に放り込み、裸になった俺は、シャワーのハンドルを捻った。


 ――ザァァァァ……。


 熱いシャワーを頭から浴びながら、先ほどまで見ていた夢の内容を思い返す。俺が、クラスメイト達に囮にされて殺された、あの日の光景を……。


「おげぇええぇ……ッ」


 凄まじい吐き気が込み上げてきて、風呂場の床に吐瀉物を撒き散らす。俺は必死に呼吸を整えながら、シャワーで口の中をゆすいだ。


 ずっと思い出さないようにしていたのに、あんな夢を見てしまうなんて……。


 モンスターに腕を砕かれた痛み、目を抉られた時の恐怖、体を焼かれた時の熱さ、そして最後に味わった、魂が消滅していくかのような喪失感と絶望感。その全てを鮮明に思い出してしまった。


「ひでぇ顔……」


 鏡に映った俺の顔は、まるで死人のようだった。美しい少女の顔に浮かぶ生気の抜けた瞳。白い肌は更に青白くなり、唇は紫色に変色している。


「……俺が死んだ時、傍に誰かがいた?」


 今までずっと封印していたからこそ、思い出すことの無かった最期の記憶。だが、夢の中では確かに誰かがいて、俺に何かを言っていたような気がする。


「駄目だ……。思い出せない」


 知っている人だった気がする。しかも、芸能人とかではなく、日常的に関わる存在だったような、そんな気がする。でも、それ以上はどうしても思い出せなかった。


 ギリリ、と拳を握り締める。指の爪が手の平に食い込み、血がぽたぽたと滴り落ちた。


 ――ガシャァァンッ!!


 怒りに任せて、風呂場の鏡を叩き割る。破片が飛び散り、俺の頬にも切り傷が出来てしまうが、超再生で勝手に治っていく。


「……逆行する世界タイムリワインド


 ギフトを使って時間を戻し、割れた鏡を直すと、俺はゆっくりと湯船に浸かった。


「俺は……さっきから何をしてるんだ」


 精神状態が非常に不安定になっている。イライラと焦燥感、そして不安。負の感情が入り混じり、自分でも何を考えているのか分からない状態だ。



「…………殺すか?」



 ぽつりと呟く。あいつらを殺せば、少しは気分も晴れるかもしれない。


 今の俺なら、クラスメイトを全員同時に相手しても負ける気はしない。例え、ダンジョンの中で、あいつらにレベルアップ能力のバフがかかった状態でも、だ。


 実家に戻ってから、ずっとあいつらのことは考えないようにしていた。だが、この世界ではまだ2年しか経っていないのだ。あいつらは当然、当時と同じ高校に通っていて、居場所もわかるし、復讐しようと思えばいつでもできた。


 異世界で殺人なんて何度も経験してきた。特に俺を■そうとしてきた奴や、■した奴は絶対に殺した。だから、今更前世のクラスメイトを殺すくらい、躊躇うはずがない。


 ――はずがないのに……。


 そんなことをすれば、二度と家族と笑って過ごすことができなくなる。そんな気がして、今までずっと復讐のことは考えないようにしてきた。


 異世界で手に入れた強大な力で、好き勝手に暴れ回り、例え復讐だとしても、虫けらを踏み潰すかの如く殺人を行う。そんな俺を、雫や母ちゃん達はどう思うだろうか?


 きっと悲しませることになるだろう。もしかしたら、俺は高雄じゃないと拒絶されるかもしれない。


「……だからって、俺を殺して呑気に暮らしてるあいつらを許せるか?」


 ……よし。


 やはり殺そう。


 今すぐに殺そう。


 学校に乗り込んで皆殺しにしよう。


 ばしゃりと湯舟から立ち上がり、決意を込めて拳を固める。そして、風呂場の扉に手を掛けたところで、ふと鏡に映った自分と目が合った。


「……なんだよ、その顔は」


 鏡に映っていたのは、俺が思っていたような、怒りと殺意に染まった復讐者の顔ではなく――――



 ――今にも泣き出しそうなほど弱々しい少女の顔だった。



「…………」


 無言のまま、脱衣所に出てタオルで体を拭いていく。鏡に映った自分の顔が、脳裏にこびりついて離れなかった。


 俺は一体どうしたいんだ? 復讐したいのか、それとも――


「お兄ちゃんただいまーーーーっ!」


 バタンと勢いよく扉が開き、制服姿の雫が脱衣所に入ってくる。そして、全裸の俺と目が合うと、手を口に当てて、ニシシと笑った。


「おほーっ! 相変わらずエロい体してますなー。いよ! 歩く18禁!」


「…………」


「それより聞いてよ、お兄ちゃん! 今日ついに未玖がさぁ、自分の体に暗黒のナイフ刺しちゃったんだよ! 何かぴくぴく痙攣してると思ったらさ! 自分の手の甲に暗黒のナイフが刺さってんの! マジでウケるよね!? いやー、あれは爆笑だったわー」


「…………」


「あ、すぐに光輝のナイフで回復させたから大丈夫だよ。でも、あの時の未玖の顔といったらもう……ぷぷっ! 写真撮っときゃよかったなー」


 俺は裸のまま、無言で雫の横を通り過ぎようとする。だが、そこで雫がぐいっと俺の腕を摑み、無理矢理振り向かせた。


 雫の青い瞳と、俺の黄金の瞳の視線が交差する。


「お兄ちゃん、何か辛いことでもあった?」


「……別に」


 一瞬、動揺しそうになる心を落ち着かせながら答える。


 だが、雫は納得していないようで、じっと俺の目を見つめてきた。その瞳はまるで俺の心を見透かすようで、思わず目を逸らしてしまう。


 雫は再び俺の腕を摑むと、ぐいっと自分の胸に抱き寄せた。そして、耳元で囁くように言う。


「……辛いことがあったら、吐き出さないとダメだよ。溜め込んでたら、いずれ爆発しちゃうから。お兄ちゃん、ずっと何かを我慢してるもん。いつも自分を偽って、無理して笑ってる。そんなの、もうやめなよ」


「ッ……。な、なんで……」


「妹だもん。それくらい分かるよ。誰よりも、ずっとお兄ちゃんのこと見てきたから」


 そう言って、雫は俺の頭を撫でる。その優しい手つきに、胸の奥がじんわりと暖かくなっていくのを感じた。


「辛かったんだよね? 私もこの前、殺されそうになった時、凄く怖かったけど、本当に死んじゃうって、あれよりももっともっと怖いんだろうなって、そう思ったの」


「雫……」


「それに、異世界でも本当は色々あったんでしょ? 私には何も話してくれないけど、なんとなく分かるの。きっと、私の想像もできないくらい酷い目に遭ったんだよね?」


 雫の温かい体温と、優しい言葉に、心の中に渦巻いていた暗い感情が溶けていく。


 そうだ。俺はずっと怖かったんだ。また死ぬのが怖くて、怖くてたまらなくて――もうあんな思いはしたくないから、だから俺は……。


 雫はひとしきり俺の頭を撫でた後、コツンと額をくっつけてきた。綺麗な青い瞳がすぐ目の前にあり、俺の顔を映し出す。


「お兄ちゃんに何があったのか、私は知らない。聞くこともしない。でも、これだけは忘れないでね? どんな辛いことがあっても、私が傍にいるから。だから、1人で抱え込まないで。辛くて、悲しくて、どうしようもないくらい寂しくなったら、私のところにきて。いっぱい慰めてあげる。だからね……もう、我慢しないで――」


 雫は俺の体をそっと離すと、その小さな両手で俺の頬を包み込む。そして、聖母のような優しい笑みを浮かべて言った。



 ――泣いてもいいんだよ?



 その一言で、俺の心は決壊した。今までずっと溜め込んでいた感情が、涙となって溢れ出す。


「う、うぁ、あぁ……うああぁああぁああぁぁあぁぁっ!!」


 俺は雫の体に縋り付くようにして泣いた。まるで小さな子供のように、声を上げて泣きじゃくった。


 辛かった。苦しかった。寂しかった。でも、誰かに甘えることもできなくて――ずっと我慢してきたんだ。


 本当は……命がけの戦いとか、人を殺すこととか、嫌で……嫌で仕方なくて……。それなのに、そうするしか生きる道がなくて……。


 俺はただ、幸せになりたかったんだ。家族と温かいご飯を食べて、毎日学校に行って、友達と遊んで、皆と一緒に笑い合いたかった。平凡な日常を送りたかった。ただそれだけだったんだ。


 ワンワンと泣き続ける俺の頭を、雫は優しく撫で続けてくれた。まるで母親のように、背中をさすりながら、俺が泣き止むまでずっと傍に居てくれた。


 ……


 …………


 ………………


 ……どれくらい経っただろうか。ようやく落ち着いた俺は、雫の腕の中からゆっくりと離れた。


 泣きすぎたせいか、頭がガンガンするし、目は腫れぼったくて開かない。だけど心は今までで一番軽くなっていた。まるで憑き物が落ちたような、そんな気分だ。


「お、なになに? もう甘えるのは終わり?」


「……世話かけたな。おかげで、すげースッキリしたわ」


 バツが悪くなって、視線を逸らしながら礼を言う。すると、雫は嬉しそうにニッと笑って言った。


「これからもいっぱい甘えていいからね! 家族なんだし、遠慮しなくていいんだから!」


「……お兄ちゃんとしては、妹のお前に甘えまくるのもどうかと思うんだけどな」


「まあ、私はお姉ちゃんでもあるし? お兄ちゃんが死んじゃった時なんか、空なんて、今のお兄ちゃんよりも酷い状態だったんだよ? 毎日、私がこうやって慰めてあげてたんだから」


 ……ああ、そうか。俺にとってはどこまでも妹だけど、こいつは俺の知らないところで、お姉ちゃんもやってるんだ。道理で、妙に包容力があるわけだ。


「お兄ちゃんはさ、もっと自由になってもいいと思うよ。難しく考えることなんてないんだ。やりたいことはやる、やりたくないことはやらない、ムカつく奴はブッ飛ばす。それでいいんじゃない? だって、今のお兄ちゃんは最強なんだから」


「それって、すげー横暴で傲慢な奴じゃん」


「いいんだよ。……お兄ちゃんは、それくらいがちょうどいいんだ」


「……なんだよそれ」


 無茶苦茶な事を言う雫に、思わず笑ってしまう。でも、悪い気分じゃなかった。むしろ清々しい気持ちだ。


「さ、そろそろ夕飯の時間だし、早くリビングに行こ! もうお腹ペコペコだよー」


 そう言って、雫はパタパタと走っていく。俺は脱衣所を出る前にもう一度鏡を見ると、そこにはもう弱々しい少女ではなく、いつもの俺の姿があった。


 ――ありがとうな。


 心の中でそう呟いてから、服を着て脱衣所を出る。リビングに向かうと、既に父ちゃんと空が帰っていたようで、母ちゃんと一緒にテレビを見ながら談笑していた。


 俺に気づいた3人が声をかけてくる。


「おや? 高雄くん。今日はなんだか機嫌がいいみたいだね」


「うん! 兄ちゃん元気そう!」


「ふんっ、そうかい? あたしにはいつもと然して変わらないように見えるけどね。ほら、夕食の準備ができてるよ。さっさと座りな」


 母ちゃんは照れ隠しなのか、ぶっきらぼうな態度で食事を促す。いつも通りの光景だが、今日は何故かその光景が、酷く懐かしく感じられた。


「ほら、お兄ちゃんも早く座って! おーなーかーすーいーたー! 早く食べようよ!」


「……ああ、そうだな」


 俺は雫の隣に座ると、いつものように皆で夕食を食べ始める。そんな当たり前の日常が、今の俺にとってどれだけ幸せなことなのかを噛みしめながら。





「あ~、もうお腹いっぱいだよ~」


 夕食を食べ終えた雫と俺は、部屋に戻ろうと廊下に出る。お腹をポンポンと叩きながら歩く雫に、俺は真剣な眼差しを向けた。


 今日は雫のおかげで色々と助かった。だから、こいつには改めて、ちゃんとお礼を言っておきたい。


「なあ、雫……今日は――」


「うおりゃー! ダァァーーイブ!!」


 部屋の扉を開けるなり、ベッドへとダイブする雫。そして――



 ――ベチャッ! ヌチャ! グチョ!



 雫の全身に大量の粘ついた液体が付着した。


「ぎょえぁああーー!? な、何じゃこりゃーーーーっ!?」


「……あ」


 俺が出した、汗とか色々な体液が混ざり合った、ソフィア汁を掃除するのを忘れてたわ……。

 

 全身ドロドロになった雫が、ベッドに横たわったままジト目で睨んでくる。


「……これ、お兄ちゃんの仕業?」


「まあ、うん」


「うん。って何よこれ! 何かちょっと臭いしベトベトするんだけど!」


「汗とか鼻水とか涙とか涎とか、あとは……おし〇ことかだな」


「ぎょええーー! お兄ちゃんの馬鹿! アホ! 変態! 巨乳ーーーーっ!!」


 ボカスカと殴りかかってくる雫の攻撃を避けも防ぎもせず、俺は甘んじてそれを受け入れた。思わず口元がニヤけそうになる。


「何笑ってるのさ! もう! やっぱり今度からは、慰めるのはなし! お兄ちゃんは1人で寂しく泣いてろ!」


 ぷりぷり怒りながら、雫は風呂場へ駆け込んでいく。俺はそんな妹の背中を見送ると、ベッドに顔をうずめて声を殺して笑うのであった。

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