第050話「拳王」

「ぜああぁぁっ!!」


 全身全霊を込めた一撃が、目の前にいる白髪の老人に向かって放たれる。老人は懸命に防御するが、それでも衝撃を殺しきれずに後方へと吹き飛ばされた。


「ぬ、ぬおおっ!?」


 壁に激突し、瓦礫に埋もれる老人。だが、この程度で終わる相手ではないことは分かっている。俺は警戒を解くことなく、ゆっくりと近づいていった。


 すでに体力は限界に近く、魔力も自動回復が追いつかないレベルで消耗している。今は気力だけでかろうじて動けている状態だが、少しでも気を抜けばすぐに倒れてしまうだろう。


 左手と右足は骨折しており、肋骨も何本かひびが入ってるかもしれない。呼吸をする度に肺が軋む。全身の骨も軋みを上げているし、内臓にもダメージがあるのだろう。視界もぼんやりとしていて、焦点が定まらない。


 すぐにでもこの場に倒れて意識を失ってしまいたいが、まだ倒れるわけにはいかない。


 ──ガラッ……。


 瓦礫が崩れる音がすると同時に、老人がゆっくりと立ち上がった。服はボロボロで身体中傷だらけだが、それでもしっかりとした足取りでこちらに向かって歩いてくる。その表情に焦りの色はなく、むしろ楽しそうに笑っていた。


「やあぁぁっ!」


 気合いの掛け声と共に、最後の力を振り絞って、左足を踏み込む。魔力と闘気を纏い、一気に加速した俺は、老人に向かって拳を────


「待て! 待てソフィア! ワシの負けじゃ……」


「────へ?」


 思わず気の抜けた声を出してしまった。


 今、目の前の老人が負けを認めたようなことを言った気がするのだが、聞き間違いだろうか?


「全く……。今のお主の一撃で、肋骨が数本砕けちまったわい……。それに、左足の靭帯も断裂しておるし、右腕は粉砕骨折しておる。老人を労る気はないのか? ……本当に容赦がないのう」


 老人は苦笑しながら肩をすくめると、降参するように両手を挙げた。


 それを見てようやく我に返る。どうやら聞き間違いではなかったようだ。俺は慌てて拳を引っ込めると頭を下げた。


 ──キィィン……


 その瞬間、老人の左手にあった『拳』を象った刻印が光り輝くと、ゆっくりと消えていった。それと同時に、俺の胸の上に同じ刻印が浮かび上がる。


「やれやれ……、苦節50年。拳王として君臨してきたワシが、まさかお主のような小娘に負けるとはのう……」


 老人はどこか寂しそうに呟くと、俺の頭にポンッと手を置いた。


「……え? 本当に私、勝ったんですか?」


 未だに信じられない気持ちだった。目の前の老人は、武神とも謳われる伝説の存在。10年前、弟子入りを志願した時は、きっと一生かかっても勝てないだろうと思っていた。それほどまでに天上の存在だったのだ。


 呆然と立ち尽くしていると、老人は俺の頭をゆっくりと撫でた。まるで子供をあやすかのような手つきだったが不思議と悪い気はしなかったので、そのまま身を任せることにした。


「お主はワシの弟子の中でも最も弱かった。10年前、何の心得もない小さな小娘が、強くなりたいとワシの所に来た時には、どうしたものかと悩んだもんじゃ」


 老人は昔を懐かしむように目を細めると、優しい口調で語り始めた。俺は黙って耳を傾ける。


「じゃが、同時にお主はワシの弟子の中でも最も真面目で努力家じゃった。才能こそなかったかもしれんが、誰よりも熱心に修行に取り組み、ワシの技をどんどん吸収していくお主の姿は実に眩しいものでな……。いつの間にか孫娘のように愛おしく思うようになっていったんじゃ」


 そこまで言うと、老人は俺の頭から手を離した。そして、小さく溜め息を漏らす。


「それがまさか、武神と言われたこのワシが、たった10年でその小娘に負けるとは思わんかったわい……。本当に大したもんじゃよ、お主は……」


「……老師」


 じんわり、胸が熱くなる。涙が溢れそうになるがグッと堪えた。そんな俺を見て、老人は苦笑いを浮かべる。


「じゃが、これで良かったのかもしれんのぉ……。ワシの高弟は碌なヤツがおらんからな。もう歳なんだから、王印戦を行わずに自分に王印を継承させて隠居したらどうだ、とか言う馬鹿共や、何やら良からぬ連中とつるんで、ワシを亡き者にして王印を奪おうと画策する輩ばかりでのぉ。ここで、孫のように可愛いお主に負けたのは僥倖じゃったかもしれん。連中にはワシが誰に負けたのか、秘密にしておいてやるわい」


 そう言って、老人はニヤリと口角を上げた。俺も釣られて笑顔になる。


「お主はワシの自慢の弟子じゃよ、ソフィア」


「老師……、私──」


「まあ、少し……異性関係はだらしないみたいじゃがの?」


「うぐぅ!!」


 痛い所を突かれた俺は、思わず胸を押さえて悶絶した。それを見た老師が爆笑する。


「ふぉっふぉっふぉっ! お主、ワシの弟子とも何人も関係を持っとったじゃろう? ワシが何も知らんとでも思っておったのか? 全く……、こんな真面目でいい娘なのに、どうして男関係だけこうもだらしないんじゃろうなぁ……」


「そ、それは……。あの、理由が……」


「ふむ……、理由か……。それはお主の能力に関係することかの? 当初は何の才能もなかったお主が、いつの間にか目を見張るような成長を遂げていたのも、それが原因じゃろう?」


「…………」


「言いたくなければ無理に言う必要はない。……ただ、お主は真面目過ぎるからこそ、色々と考え過ぎて自分を追い詰めてしまうところがあるからのう……。もしかして、かなり無理をしておるのではないか?」


 完全に図星を突かれて言葉に詰まる。


 やりたくてやっているわけではなかった。いつの間にか強迫観念のようにやらなきゃいけないと、そう思ってしまっているのだ。


 これだけ強くなったのだからもうやめよう、そう何度も思った。それでもまるで依存症の患者のように、その行為から逃れられないのである。それをやめたら、強くなるのをやめたら、また死んでしまうのではないかという恐怖に駆られる。


 黙り込んでいると、老師は再び俺の頭を撫でてきた。その感触が心地良くて、思わず目を細める。


「お主は強くなった。じゃが、強さとは力だけで決まるものではない。心の強さも重要じゃ。お主は、それがまだまだ未熟なようじゃな……」


「心の強さ……」


「ソフィアよ、お主はもっと自分に自信を持ってもよいのじゃぞ? 慢心してはならんが、必要以上に自分を卑下する必要もない。お主は自分が思ってる以上に素晴らしい人間じゃ。じゃから、もっと自分を信じてあげなさい」


 老師はそう言って優しく微笑むと、俺の頭から手を離した。その笑顔を見た瞬間、胸の奥底から熱いものが込み上げてきて、視界が滲む。


 俺は慌てて目元を拭うと、精一杯の笑顔を浮かべた。そして深々と頭を下げる。


「ありがとうございました、老師。私、あなたのおかげでここまで強くなれました。自信も……ちょっとは持てたと思います。まだ、ちょっとですけど……」


「ふぉっふぉっふぉっ、それなら良かったわい」


 老人は満足そうに頷くと、こちらに手を差し伸べてきた。俺はその手を強く握り返す。


「ソフィア、もし道に迷ったら、誰かに頼りなさい。ワシの所に帰って来ても良いし、誰の元にでも行って、相談してみることじゃ。お主は1人で抱え込み過ぎるきらいがあるからのう……。どれだけ強くなろうが、人は1人では生きては行けぬ。それを忘れんようにな?」


 俺が小さく頷くと、彼はニカッと笑みを浮かべた後、一転真剣な表情になった。


「南天流総帥、ガーライル・サザンダイナの名において命じる。ソフィア・ソレルよ、お主に南天流免許皆伝を与える」


「……はい!」


 老師の言葉に、俺は力強く返事をした。そしてもう一度頭を下げると、彼は俺の王印に拳を当ててきた。



「ソフィアよ、今日からお主が──"拳王"を名乗るがよい!」

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