井戸下の九頭龍

 江戸の世、安房に設けられたとある城に一人の男が呼ばれ、脚を運んだ。其の男は性を山里、名を九右衛門と云う。山里は江戸の町にて相当に名の知れた井戸掘りで、「山里に掘らせた井戸から水が出ぬことは無い」と巷説にて云われている程に腕の立つ、希代の井戸掘りであった。

 くだんの安房の城の城下町へと辿り着いた山里は鼻をひくつかせ、目を見張り、驚いた。水の匂いがしないのだ。水捌けが良く…いや、良過ぎているせいか足下の土は空っ空に乾き切っており、手で土を抓んでも一切土が指先に残らない。其れ所か、土に触れた指の先から水が奪われている様な気さえした。道行く町人に聞く限りこの町にはとても小さな川がたったの一筋。

正に、此の町は水屋にとって打ち出の小槌の様な良き商売場であった。




***




 城門を潜り、城主の多田 家紀と謁見を果たした山里は思わず目を見張る程の良き待遇を受けた。まるで、何かの不調の前触れなのではと思う程に…

 「御殿様、此の度は何故拙者をお呼びになられたのでしょうか?」

 山里は問うた。すると、城主の多田は身を前に乗り出して答えた。

 「其方に一つ、井戸掘りを頼みたいのだ…」

 多田の話曰く、年々水の額を好き勝手に増して行く水屋と金輪際縁を切る為、城の庭の一角に大きな井戸を掘り当てて欲しいとのことであった。「無論、無事に井戸を掘り当てた暁には言い値で報酬を支払おうぞ」と、必死になってすがり付いてくる多田の威勢に山里は到頭断ることが出来ず、依頼を受諾した。

 仕事の間、山里は城に住まうこととなった。城の者に案内された城内の空き部屋を一室借り受け、其の部屋で山里は井戸掘りの案を練ることとした。




***




 不幸中の幸いと言うべきであろうか、此の度の城の設けられている土地は気高い山々の麓であり、水源が城の地下に眠っている可能性は十二分にあった。

 翌朝の早朝、かけが鳴くよりも前に起床した山里は手早く着替え、井戸掘りに必要な道具共を手にし、ぶつぶつと独り言を呟きながらも城の庭を行ったり来たりと歩いて回っていた。案の定、其の庭の土も乾燥し切っており、掘って水が湧き出る気配は無かった…或る一角を除いては。

 「おや、此処は…」

 城の庭の一角に、土の色が少々黒ずんだ場所があった。山里は若しやと思い、其の一角の土を抓んだ…すると、山里は目を見張って驚き、笑みを面に浮かび上がらせた。土が湿気っていたのだ。土を抓んだ指先には少量ではあるが土が引っ付いて残り、試しに其の箇所の表の土を掘り上げると、下の土も、其の又下の土も同様に湿気っている。

 「此の下に水がある…っ!」

 そう断定した山里は次々と土を掘り上げ、井戸を掘り当てた暁に多田より貰い受ける報酬について空想を膨らませ、ニヤニヤと口元に笑みを浮かべながらも唯々、只管ひたすらに井戸掘りを進めて行った。




***




 三十尺程井戸を掘り進めた頃の事である。始めは少し湿気っていただけの土が徐々に水々しくなり、泥へと形容を変えて行き、穴を掘るには足場が泥濘ぬかるみ、不安定になり始めてきていた。

 「少し…もう少し……あと少し………」

 いつの間にか報酬に空想を膨らませることを忘れてしまった山里は唯目の前の仕事を一心に、無我夢中になりながらも井戸を深く々々、丈夫で長い縄がなければ地上に上り下りできなくなる程深く迄、掘り進めていた。しかし、其の最中…

 「うわぁ…っ!?」

 井戸掘りを進めていた山里の足場が何一つ前触れも無くバラバラ…と崩れ、地下深く迄山里は落ちてしまったのだ。

 「痛っててぇ〜」

 幸いにも、地下に広がる柔い泥が山里を受け止め、命を救った。

 「何だ、此処は…?」

 着物についた泥を払い落としながらも其の場で立ち上がり、周囲を眺めた。すると、其こは広くて大きな…まるで、巨大な大蛇が通った跡かの様な隧道ずいどうであった。江戸の町の様に水の匂いで満ち溢れてはいるが、此の隧道はなんとも虚しくて、心細くなる空虚な隧道であった。曇り夜空の下に広がる闇の様に薄暗く、一度声を発すれば反響し、そっくり其の侭己の声が帰ってくる。特段所以も無く、異様に暗く静まり返った此の不気味な隧道を唯々本能が恐れながらも山里は地上へと助けを求めた。

 「おーうぃ!!誰か縄を下ろしてくれぇっ!!!」

 かつて出したことも無い程の大きな声で助けを求めてみるも、地上には誰も居らぬようで、反響のみが帰ってきた。

「…おーうぃ!!誰か縄を下ろしてくれぇっ!!!……」

 己の言葉が隧道内に吸い込まれるかの様だった。そして…

『…おーうぃ!!此方こちらへ御出でぇっ!!!……』

 山里はバクンッ…と震え上がり、脂汗を滝の様に流しながらおののいた。己の声が言ったことも無い言葉となって響き渡り、帰ってきたのだ。「誰か縄を下ろしてくれ」とは言えど「此方へ御出で」等とは一言も口から発していない。山里は隧道に広がる薄暗き虚無の空間を酷く恐れ、もう一度地上へと助けを求めようとした。併し、声は一声たりとも出なかった。いや、出すことが出来なかったのだ。又、己が声が異なる言葉となって帰ってきたら…そう考えただけで口が堅く閉ざされた侭開かなくなり、己の声が何かに奪われたかの様に、たったの一言も喋れなくなっていた。山里は口を固く閉ざしたまま、酷く脅え、足下の泥へと視線を送り、只管にうつむいていた。すると、其の時、

 『ごくん…ごくん……ごくん、ごくん………』

 と、何かの鼓動の様な迚大きな音が隧道の奥より聞こえ始めてきた。静寂の空間に耳が慣れてしまったのだろう。此の鼓動の様な何処か聞き覚えのある不可思議な音は見る々々内に大きく、はっきりと聞こえる様になってきた。此の音が聞こえる度に、山里は身体をびくつかせ、行き場の無い全身を撫で回されるかの様な恐怖に溺れそうになっていた。だが、何時の時からだろうか…山里は恐怖の念よりも疑問の念を強く抱く様になっていた。

 「此れは一体何の音なんだ?若しや先程の反響は只の聞き間違えで、此の鼓動の様な音も知ってしまえば呆気の無い様な、何か絡繰からくりがあるのではないか…?」

 そう根拠も無い考えをあれやこれやと広げている内に、山里の身体の震えは少しばかり収まっていた。




***




 助けの来る気配がなかった為、山里は薄暗い隧道を進み、出口を探すことにした。隧道の内は完全な闇ではなかった為、よく目を凝らせば前方が、足下が見えた。泥の地面の上を何とか歩んで行き、何故か鼓動の様な音も進むにつれて大きくなっていった。

 「一体、此の音の正体は何なんだ?」

 何処か聞き覚えのある様な音に耳を傾けながらも隧道を進んで行くと、曲がり角に当たった。今まで空に漂っていた水の匂いが一気に濃くなった事を己の鼻が感じ取った。山里は壁に手を当て、手探りで模索しながらも進んで行った。すると、山里はいつの間にか、壁の感触が僅かに変わっている事に気が付いた。何処か固過ぎず柔らか過ぎず、平坦過ぎず凸凹過ぎず…さながら蛇のうろこを撫でているかの様な感触であった。そして、此の壁が心なしか動いている様に感じるのだ。山里は不思議に思い、両目を凝らして足下から正面へと視線を向けた。すると、其こには隧道を埋め尽くす程に大きな大蛇が居た。頭と首は九つもあり、地下から湧き出る大量の水を各々の頭についている口が休むことなく『ごくん…ごくん……』と、飲んでいた。此の時、ようやく山里は此の音の正体へと辿り着く事が出来た。九つ頭の化け物が水を呑む音だったのだ。

 「何なんだ…此奴は……」

 ふと口から漏れ出た山里の声に九頭の化け物はビタリ…と水呑みを止めた。そして、業物の刀の如き鋭い視線を山里へと向けた。併し、其れだけだった。大きな口と鋭利な牙で襲ってくるかと身構えるも、まるで人には興味無しと言わんばかりに九頭の化け物は十八の眼で唯々、山里の面を見詰め続けた。咆哮を上げる訳でも無く、興味を示す訳でも無く、唯見詰め続けた。山里は九頭の怪物の眼光に息が出来なくなる程恐れ戦き、たったの一歩その場を退くことさえ恐れていた震える脚を無理やり動かし、無我夢中になって来た道へと急ぎ引き返した。酷く疲弊し、恐怖の余り気を失う迄、薄暗き隧道の内を延々と走り続けた。




***




 いつの間にか気を失っていた山里は、心安らぐ木の匂いがすることに気付き、目を覚ました。

 「おぉ、目を覚まされた。山里よ!」

 眼前には微笑む多田の姿があった。そして、山里は薄暗い隧道の内ではなくあの見覚えのある城の内に居た。多田曰く、山里は無事に井戸を掘り当てるも湧き出る多量の水に溺れてしまい、今の今まで気を失っていたと云うのだ。また、城の井戸が掘り当たったと同刻に城下町の涸れていた井戸共も見事息を吹き返したと云う。

 山里はうつし将又はたまた夢か定かでは無いが、多田へとあの九頭の化け物と邂逅した話をした。すると、多田は山里の話を莫迦ばかにする訳でも無く、とても興味深そうに聞き、真逆まさかと言わんばかりに驚きながらも答えた。その九頭の化け物の名を「九頭竜」と云うそうなのだ。以降、山里は井戸に湧き出る鏡の様な水面の奥底、暗い闇を覗き込むのを酷く恐れる様になったそうだ。

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