第25話 心頭滅却。至れ、無我の境地に

「ダメだ、どこにも無い……」


 俺の部屋で繰り広げられた懸命な捜索作業もむなしく。

 彩乃の鍵は、一向に姿を現さなかった。


「すみません……。わたしが家の鍵をポケットなんかに入れるから……」


 そういえばそうだった……。

 俺と違って掃除が上手なくせに、何故か大事なものの扱いは下手な彩乃。

 しかし前者のイメージが昨日に深く植え付けられたせいで、後者のことをすっかり忘れていた。


「はい、これ」


 だが無いものはない。仕方がないのだ。

 そう言い聞かせた俺は、やや小さめな寝間着を彩乃に渡した。

 中学の時まで着ていた、グレーの麻生地パジャマだ。


「いっ、いえっ、大丈夫ですっ! わたし、制服で寝ますから!!」

「そんなことさせるもんか。ほら、これ着て寝ろ。明日も着る制服なんだろ」

「わっ、分かりました」


 案外すんなり折れた彩乃。

 そのまま洗面所ですぐさま着替えると、「見てください、ぶかぶかぁ〜」と言いながらこちらに戻ってきた。


「ところで、わたしのお布団ってありますか?」

「あっ」


 そういえば無かった。


「……あの、もし無ければ、わたしが地べたに」

「ダメだ。俺が地べたで寝る。だから彩乃は遠慮するな」


 これにはさすがに折れるわけにはいかない。俺は心を鬼にした。

 まず相手は友達である前に女の子だ。お客様だ。

 彩乃にそんな汚くて痛いマネなんかさせられない。


「いえいえっ、本当に大丈夫ですから!!」

「いやいや、俺こそ本当に大丈夫だから!!」


 しかし彩乃がひたすらに遠慮したおかげで、壮絶な譲り合いになってしまった。

 たまに電車でおばあちゃんと譲り合いをした挙句に折れておばあちゃんが席に座るのだが、今回の譲り合いはその比では無い。


「「じゃんけんぽん!!」」


 そして両者の譲れない戦いは、じゃんけんで決することになった。


「よし、俺の負けだ! 俺が地べたで寝る!!」

「いいえ、わたしが勝ちましたから! 地べたを譲ってくださいっ!!」


 また出たな謎理論。

 ……てかなんだよ、地べたを譲るって。


「やっぱりダメだ。彩乃はちゃんとそれ着て、布団で寝ろ」

「いや、だからわたしが──」

「いいから。ほら? 布団敷いてやったから」


 だが、じゃんけんに負けたのに彩乃の寝床を奪うなんて外道なマネはできない。

 俺は掛け布団をひらりとめくりあげ、マタドールで闘牛を誘導するように揺らしてみせた。


「……じゃあ、先輩も入ってください」


 もじもじしながら、彩乃はそう言うが……。

 いや、さすがにそれは……。


「……ダメだ」

「じゃあわたしが地べたで寝ますっ!!」


 ダメだ。らちが明かない。


「しゃあねぇなぁ……」


 何度目か分からないが、俺はまた彩乃の折れない心に屈してしまった。

 さっきは彩乃が折れてくれたのに。

 どうやら俺が大損を被るのが嫌なのだろう。優しい奴め。


「じゃあ、失礼しますっ」


 大御所の楽屋に入る芸者みたく、恐る恐る俺の布団に入る彩乃。

 そんな彼女のあとに俺も入ろうとしたが、


「どうしたんですかっ?」


 ダメだ。足が動かねぇ。

 たかぶる胸の鼓動がドクドクうるさくて、頭が真っ白になりそうだ。


「すぅ……、はぁぁ……」


 だがこれ以上、寝床は無い。無いものはない。仕方がないのだ。

 心頭滅却しんとうめっきゃく。至れ、無我の境地に。


南無阿弥陀仏なむあみだぶつ南無阿弥陀仏なむあみだぶつ、なまむっ、なむあむっ、南無阿弥なむあみ──」

「先輩!?」


 とりあえず念仏を唱えたらいいよ。

 姉さんがかつて、落ち着きのない俺にくれたアドバイスをかてに、俺はひたすらに南無阿弥陀仏を唱えた。


「──よしっ!!」


 煩悩はもう無い。よこしまな気持ちなんてどこにも無い。

 俺は頬をバチンと叩き、ようやく布団に入った。


「……あれ?」


 てっきり彩乃と肌が密着するだろうと思ったが。

 驚くべきことに、俺の布団は二人入っても余裕があった。



 ○



「すぅ……、すぅ……」


 先輩の、寝息が聞こえる。

 普段なクールな低音で話す彼の口から、可愛い音が聞こえてくる。

 そして今あるこの状況に気持ちが昂っているせいか、わたしは深い眠りにつけなかった。


(先輩、どんな顔で寝てるのかな……)


 わたしの背後に、すやすや眠る先輩がいる。

 そんな彼の寝顔が気になったが、どうも寝返りを打てなかった。


 だって、だって……。


(見てるところバレたら、絶対怒られるもん)


 でっ、でも……、ちょっとくらいはいいよね?

 わたしはゆっくりと、寝返りを打ってみた。


「……っ!!!」


 ダメダメダメダメ! 

 予想外のエマージェンシーに、わたしはすぐさま定位置に戻った。


 えっ、なんで!? 距離近っ!!


 寝返りと打った先にあった先輩の顔。

 だけどそれは、何故か寝返りを打ったら触れてしまいそうなくらい近くにあったのだ。


(さっきはわたしからめちゃくちゃ離れてたのに……?)


 二人入っても何故か余裕な、大きいお布団。

 先輩は顔を真っ赤にして、その端で眠っていたはず。


「すぅ……、すぅ……」


 だけど今の二人の距離は、何者も入れないほど狭まっていた。

 もしかして先輩って、寝相悪い!?


「……ゃの」

「先輩?」


 今、わたしの名前を呼ばれたような気が?

 しかし次の瞬間だった。


「ふぇっ!?」


 手が! 先輩の手がすそに!!


「んっ……。まてよ、あやの……」


 待って! 待って待って待ってっ!!

 わたし今、先輩に服の裾、クイって掴まれてる!?

 未だかつて無い男子の行動に、わたしは今すぐにでも叫びたい気分だった。


(しかも間違いなくわたしの名前呼んでるよね!?)


 先輩は一体、どんな夢を見てるって言うの!?

 夢の中のわたしは、何なの!?

 そんな疑問が、余計にわたしの眠気を吹き飛ばした。


「……ょかった。ここにいたのか」

「先輩?」


 暗闇の中でわたしを見つけて安堵したような、柔らかい声。

 どこにも行かないでとすがるような、先輩らしくない声。

 本当に、先輩はどんな夢を見ているのだろう?


「……ちゃんと、ついてこいょ」


 気になるけれど。気になるけれど。


「──はい」


 今はそれ以上に、わたしを求める先輩の手をギュッと握りたくなった。


「ついて行きますよ、先輩」


 友達として。お料理ができない先輩のために。

 ずっとずっと、ついて行きます。

 だからわたしはその手を離すまいと、ギュッっと手を握った。


 ……握った、のだけれど。


「──いっ!!」

「……ぁやの?」

「いっ、痛い! 痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い!!!!」


 痛い! 先輩、握力強すぎ!!


「あや!? ……の??」

「あっ……」


 わたしの悲鳴に目を覚ました先輩。

 だけどその瞬間、本当に時が止まった。


「……ちっ、違う! これは!!」

「違うんですっ!! わっ、わたしが悪いんですっ!!」

「…………」

「…………」


 あたふたした挙句、無言で俯くわたしたち。

 あぁもう、暑い……!

 汗が止まらない。胸のドキドキがうるさいよ……。

 ぶかぶかなパジャマで顔を隠してみるけれど、先輩のにおいが鼻腔びくうくすぐるから余計に落ち着かない!!


「ふぅ……、ふぅ……」


 心頭滅却。至れ、無我の境地に。

 南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏……。

 ゆっくりと息を吐きながら、わたしはしばらく心の中で念仏を唱えた。


 ……だけど、ダメっ。全然ダメっっ。


「ちょっと、御手洗行ってきます……」

「……おぅ」


 この空気に耐えかねたわたしは、先輩から少し離れることを選んだ。





【あとがき】

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 あと申し訳ないですが、また月曜日に投稿をお休みさせていただきます。リアルがちょっと忙しくなってきたので……。

(土曜、日曜は投稿しますっ)

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