第14話 仕組まれた企画
私ははっとなって日向さんの席を見つめた。彼女は右手をボタンにかけたまま、感情の無い声で答えを述べる。
「改定長谷川式簡易知能評価スケール」
彼女の答えは私が想定していた認知症の評価スケールの1つに違いなかった。先を越された。
しかし分からない。ここまでの問題文に 『長谷川式』ともう一つを区別できる要素は、私の知る限りなかったはずだ。
もしそれが私の見落としで、彼女には何か気づいた点があるとすれば、私は医療を学ぶ者として、単にクイズに敗れた以上の敗北を味わうことになる。
しかしこれは早押しクイズだ。2分の1に賭けてボタンを押したという可能性も十分考えられる。いや、そうであってくれ。私はただひたすらに待った。
――響いたのは、不正解を告げる不愉快な、私にとっては幸運な音だった。私は静かにボタンを押し、震えた声で答えた。
「Mini-Mental State Examination(MMSE)」
「正解です!この瞬間に優勝は――楠本カイネに決定しました!」
胃に温かい水が流れてくるような、そんな安堵感が私を包んだ。安堵は次第に沸き上がる喜びに代わり、思わずボタンに手をかけていた右手で拳を作り、宙に突き上げた。
控室に戻ると、拍手の音が私を包む。予選で争ったまなつ先輩、服部先輩、エリカが祝福してくれているのだ。
「おめでとう」
「まなつ先輩、拍手でそれ言うと『エウアンゲリオン』……ってそれはどうでもいい。とにかくよくやったな! 運営に一泡吹かせてやったぜ、あれはどう考えても俺たちに3Dモデルを渡す気なかっただろう。いい気味だ」
まなつ先輩と服部先輩のよくわからないやりとりにつづいて、エリカが私に尋ねた。
「珍しいですね。クールな貴方がガッツボーズだなんて。それとも、それが素なのですか?」
「さすがにここは喜ぶところだよ、エリカ。3Dモデル配信の優先権、誰だって欲しいはずだろう?」
「でもそれで彼女のIRISデビューを潰してしまうことになるというのは、気後れするのではないですか?」
――私は日向さんからその件について聞いてから、極力考えないようにしていた。
エリカの言うことも正しいかもしれないが、日向さんとて早押しクイズの直前のタイミングでわざわざこの件を公表するというのは、私たちを動揺させるための打算が含まれているに違いない。
それに乗せられるというのは思う壺だろうし、何より
次に聞こえてきたのは、三枚堂さんの後ろからの呼びかけだった。
「楠本、事務所からスタジオAの控室に来てほしいとのことだ。分かるな?さっき案内した、3Dモデル撮影用の一番大きいスタジオだ」
当然、3Dデビュー配信の打ち合わせだろう。IRISにおいてはその企画は主にライバーが立てるが、協力、出演してくれるライバーとの調整、スタジオの調整など事務所との協力は欠かせなかった。
ゲーム実況や雑談などの従来の配信は引き続き2Dで行うが、3D配信が増えれば東京に向かう頻度も高まる。ますます忙しくなるだろう。
しかし3Dデビューに比べれば、取るに足らない悩みだった。私は軽い足取りで控室の扉をノックして開けた。
――そこには、骸骨のように痩せ、黒淵の眼鏡をかけた顔で笑顔を見せる、永瀬取締役その人の姿があった。
彼は控室の一席の背にもたれて、脚を組んで腰かけていた、面接の時は初対面だったこともあり注目していなかったが、だいぶ若い印象だ。医学部の多浪、学士編入組とあまり変わらない。
「芦原……いや、楠本君。面接以来だね。どこでも好きな席に座って話をしよう。」
私は彼から斜め向かいの席に座り、早速、しかしゆっくりと切り出した。
「……なぜ取締役が直々に?てっきりマネージャーや裏方の方々と打ち合わせるのだとばかり……」
「まず、僕のことは『永瀬さん』でいい。まだ27歳だからね。社外の相手とビジネスの話をするならともかく、ライバーとくらいは普通に話したい。」
ライバーと近い距離感を求めるのは結構なことだが、私の中で彼に不信感が募っていた。どう考えても私が期待していた流れではない。
「……永瀬さん、どうやら3D配信の打ち合わせじゃなさそうですね」
「察しが良くて助かる。3Dデビューはまだまだ先だからね。具体的な打ち合わせをしても仕方がない」
頭を殴られたような衝撃が私を襲った。
「……クイズの直前、三枚堂さんは貴方の名前を出して『優勝者に3Dモデル作成の優先権を与える』と確かにおっしゃいました」
「そうだね。だけど『IRIS全員の中で』優先するとは一言も言っていない。あれは『クイズに参加した君たち4人の中で』優先するという意味だ」
IRISにおける3D配信デビューの本来の順番は、「チャンネル登録者数10万人達成日順」である。私は4人の中でまなつ先輩に次ぐ2番目。つまり1人分しか順番が入れ替わらない計算だ。私は思わず語気を強め、非難するように話した。
「それで登録者数10万人達成後間もないライバーを集めたんですね。企画を見たときは、単に新人を集めただけとしか思いませんでしたが。どういうことですか。なぜそもそもこんな企画を?」
「このやり方が一番君たちの素の姿、かつ本気の姿を引き出せると思ったからだ」
永瀬さんの目つきが変わった。面接の時と同じ、遠く大きなものを見つめるかのような印象を受ける。
「私にはまだ、貴方が何を言いたいのかわかりません」
「このクイズ番組自体は定期的に開催しているが、日向さんがゲストに来てくれるとなったときに思いついたんだ。彼女と君を対決させたとき、君の医療を学ぶものとしての姿を引き出せるんじゃないかと。そのために要所で医療の問題が来るように仕掛けたんだよ」
「わかりません。そもそも『楠本カイネ』は医者じゃない――」
――その時、入り口のドアが開かれ、私と永瀬さんは会話を中断してそちらに目を向けた。日向さんが姿を現した。ナース服から着替えてコート姿になっている。
「それであの早押しクイズにつながるんですね」
永瀬さんは一瞬だけ驚いたような顔を見せたが、すぐに平静を取り戻して応対した。
「ええそうです。……それにしてもどうしてここに?」
「もう帰りますから、貴方に今回のお誘いについてお礼を言いに来たんです。居場所を聞いてやってきたら面白そうな話をしてるじゃないですか」
「ああ、確かに君は惜しくも優勝を逃してしまったな。だがこの際だ。やっぱりウチに入る気は無いかい?」
「謹んでお断りします。今の私はこの子が第一で、ライバー活動はその次ですから。個人勢の方が合ってます。そういえば、託児所をお借りしたこともお礼を言わないといけませんね」
そういうと彼女は後ろについてきていた小さな子どもの手を引いてお礼を言わせた。4歳くらいのかわいらしい男の子だ。
「はははっ……これは敵わないな」
永瀬さんは一本取られたという顔をしている。私は驚きつつも納得した。確かに彼女はIRISに誘われているといったが、それを受けるつもりだとは一言も言わなかった。
日向さんが今度は私のほうに向いた。撮影中と同じく笑顔だったが、その時より何となく柔和な印象を受ける。
「途中から何となく、おなじ医療系の人間じゃないかと思ってたのよね。私の愚痴を聞いている様子が他人事じゃなさそうだったし。だからつい本気になっちゃった。最後の問題、あなたは手も足も出ないって顔じゃなかった。『長谷川式』か『MMSE』かどちらかだってわかってそうだった。それで私も焦ってボタンを押しちゃった。現役時代、『長谷川式』しか直に扱ったことが無かったから、咄嗟に出てきたのがそっちだったけど、こればっかりは運だったわね。でも面白かった。また機会があったらお話しましょう」
「え、ええ……」
そうして日向さんは控室を去った。母親にして、ライバー。そういうのもあるのかと、私は彼女と争ったことも忘れて彼女の後ろ姿を見つめていた。
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