第13話 医学生 VS 看護師
いったん収録が止まり、決勝の早押しクイズに備えてセットの配置換えなどが行われる。私たちは適当に手伝ったところで、いったん控室に引っ込んだ。
準備が進む中、ナース服姿で伸びをしながら日向さんがつぶやいた。
「なんか拍子抜け。結局みんな一度も私を指名してくれなかったし」
「なんて言ったらいいか……結局私だけではなく全員が貴方を決勝戦に生かす作戦だったようで、せっかく来ていただいたのにすいません」
「あなたは……確か楠本カイネさん、だったわね?まあ、こちらとしてはそれなりに出演料も貰っているし、あとはもうちょっと目立って自分のチャンネルの宣伝になればそれでいいかな」
看護師ライバー。私にとっては医療従事者としても配信者としても先達である彼女には、聞いてみたいことはいろいろあった。
「日向さんは本物の看護師……ですよね?どうしてバーチャルライバーをやろうと思ったんですか?」
「現役ではないけどね。前の職場はまともな人間なら半年で気が狂うところだった。ただでさえ医師の指示が無いと動けないのに、15時までに指示出しして下さいと何回お願いしても通らない。だから夕方から始まる業務が多くて、定時から3時間経っても終わらないのはざらだった。医者なんてたいていロクなもんじゃないわ」
私は一瞬身じろいだ。日向さんはそれに気付いているのかいないのか、さらにまくし立てる。
「それで遅れても上司から怒られるのはこっち。患者さんと接する時間も医師の何倍もあるから、患者さんの文句やクレームもほとんどは私たちが受け止める。それでまともな人から辞めていくから、残ったナースは新人に指導するうちにマウントを取る達人になってしまった、人間とは思えない連中ばかりだったわ」
私は1年生の時の早期臨床体験実習を思い出していた。1日だけだったが病棟にもお邪魔させてもらい、病棟での1日を知る機会があった。
入院患者の状態を把握するには定期的な採血は欠かせないものだった。朝の採血は看護師が行う。採血結果に影響することがあるため原則として朝食前に行う必要があり、不機嫌な患者さんを起こすのも仕事のうちだ。
食事量の計測、バイタルサイン(体温、血圧、脈拍、呼吸回数など)の計測、ADL(日常生活動作)の不自由な患者さんの介助、点滴の交換、医師が行う処置の助手といったルーチンワークのほか、患者さんからの呼び出しもまずは看護師が応対する。そもそもこの呼び出しの名前が「ナースコール」である。ナースステーションではひっきりなしにこれが鳴り響く。
結果として看護師というのは医師より患者さんに接する回数、時間ともに多く、医師と患者の板挟みとなりストレスを抱えやすい。彼女の話し方からはそれを生々しく感じることが出来た。アバターも看護師ながら、配信内容も歌やゲーム実況が中心で、あまり医療系の内容に踏み込んだ配信をしていないのも、そういった理由なのだろうか。
「それで仕事を辞めてライバーに……?」
「辞めた理由は他にもあるけどね、実は声優になるのが学生時代の夢だったから、今は充実してる。人気は後からついてきた感じだわ。でもその人気のおかげで、今回みたいに企業からの仕事も来るようになった。今日のクイズで優勝したらIRISに来ないかって誘われてる」
「――何ですって?」
日向さんのさりげない衝撃的な発言に、ノートPCで作業をしていたエリカはその手を止めていきなり驚きの声を上げた。
「どうして最初に言ってくれなかったんですか?」
「聞かれなかったからね」
私の質問に、彼女はあっけらかんとして答えた。こんな方法で個人勢を勧誘するなんて聞いたことがない。
それより重要なのが、私たちは彼女を意図的に決勝戦に押し上げたことだ。3Dモデルがかかっている私たちとは違い、日向さんにはこのクイズに優勝する動機が無いと思っていたからこの作戦をとったのだ。
しかし彼女は実際には私たち並みかそれ以上の動機を持ってこのクイズに参戦したというのか。これは厳しいことになるかもしれない。
「どうやら始まるみたいね。お互いしっかり番組を盛り上げましょ」
日向さんは私たちの誰よりも落ち着いた様子で、スタジオに一足先に向かっていった。
「さあ、決勝戦と参りましょう。内容はシンプルな早押しクイズです。正解者は1点、不正解者はマイナス1点。両者不正解となった場合は次の問題に移ります。問題は全部で10問。終了時点同点の場合、サドンデスとなります」
三枚堂さんはタブレットに表示された問題を読み上げる。
「では第1問、バイタルサインといえば、血圧、脈拍、体温、あと一つは?」
「呼吸数」
早押しボタンを押す音と、日向さんの堂々とした声が間髪入れずに響く。すると、控室からまなつ先輩の叫び声がここまで聞こえてきた。今さらだが、控室にはこちらの様子ははっきり伝えられていて、そのリアクションもこの番組の楽しみである。本来なら。
「わ…罠だ!これは罠だ!運営がウチらを陥れるために仕組んだ罠だ!ナースがいるのに医療系の問題を出すのは、おかしいじゃないか!それが罠だという証拠!」
相変わらず彼女の芝居がかった大仰な台詞はよくわからないが、運営はどうやら私たちに3Dモデルを渡す気がなさそうなのはよくわかった。しかし収録中に表立った批判をするわけにもいかない。思わず唇をかんだ。アバターにはまだこれを反映させる技術は無いのが幸いだ。
悪い予感は的中した。その後の出題にも医療系の問題が混じっていた。私はその全てで日向さんに後れを取った。答えを知ってはいるケースが多いのだが、どうしてもボタンを押す手の反応が鈍い。
おそらく、今の私が「楠本カイネ」を演じているせいだ。医師でも医学生でもない設定なので、その役に没頭しているとどうしても一手遅れる。
とはいえさすがどの問題も医療系というわけではなかった。私はプライドをかけて常識問題を落とさずに正解していき、どうにか日向さんに食らいついていった。最後の一問を残し、私が4ポイント、日向さんが5ポイントという状況だ。
スタジオは静まり返り、自分の呼吸音がいやに大きく聞こえる。次で決着か……いや、余計なことは考えるな、集中しろ……
「『100から7を順に引く』『3つの単語を述べて繰り返させる』……」
出だしを聞いて胃が沈み込むような感触を覚えた。ここにきてまたしても医療系の問題だ。しかも看護師なら十分答えられる範囲の問題。状況は厳しい。
認知症を疑う患者に、問題を出すという形式でその認知機能を評価するテストがある。それに出される問題そのものだった。
例えば、「100から7を順に引いてください」と患者に出題し、「93、86、79、72、65……」と答えてもらう。正答数で0点から5点まで評価する、といった具合だ。出題内容は基本的に決まっており、全部で30点満点となる。おそらくそのテストの名称を答えさせる問題だ。しかし私はボタンにかけた右手を下ろさなかった。
この問題はまだ答えを絞り切れないのだ。私が知る限り、認知機能評価テストは2種類ある。ここまで読み上げられた部分はどちらも共通で区別がつかない。おそらく次の問題あたりで区別がつくはずだ。私は三枚堂さんの読み上げの、最初の発音さえ聞き漏らすまいとした。全ての感覚が耳に集まっているかのように感じられた。
――聞こえてきたのは、問題を読み上げる声ではなく、左の席のボタンが静かに押される音だった。
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