第3話 夫人と解剖実習

「は?もう1カ月前には合格が決まってた?」

「ごめん、紗良に話す許可がなかなか下りなくってさ」


 秋学期が始まって間もなくのこと、大学講義棟1階のホールにある休憩所において、私はようやくその吉報を打ち明けることが出来た。


「それで、初配信はいつ?」

「それなんだけど、ひとつ相談したくって……」


 初配信までの道のりは難航していた。理由の1つは大学生活が俄かに忙しくなったためである。2年生は基礎医学と呼ばれる正常な人体について学ぶ授業が集中しており、学習内容は膨大なものとなる。結果としてこの学年は全体の1割近い10人前後もの留年が毎年発生する難所と化していた。春までの余裕が嘘のような状況である。

 糖やたんぱく質の代謝、DNAの仕組みなどを学ぶ「分子生物学」、臓器ごとに顕微鏡レベルの構造を学ぶ「組織学」、受精から誕生するまでを扱う「発生学」、病原体やがん細胞などを認識し排除する仕組みを学ぶ「免疫学」といった講座が畳みかけてきたのだ。

 そして人体の機能と構造をそれぞれ学ぶ、「生理学」と「解剖学」が別格だった。1000ページを超える教科書「スタンダード生理学」はもう見るのも嫌な程だった。

 また、当院の解剖学教室は夫婦で教授と助教を務めるという異色の教室であり、普段授業を行う助教・谷川夫人の強烈なキャラクターは私たちを震撼させた。


「お前らのような馬鹿どもに教えるのは楽じゃないがな、ただ実習に入る前に知識を入れとかないとご遺体に失礼だでな、点数の足らんものは実習に入る前に留置とめおき確定な」


 『夫人』はそういって毎回小テストを課した。内臓はもちろん、200本以上の骨、500以上もの筋肉、全身に張り巡らされた神経の名前も覚えていかなければいけない、さらに日本語だけでなく英語も出題範囲だった。


 ここにいるのは入学するまで馬鹿と呼ばれるようなことはほぼない学生ばかりなのだが、理系と言うこともありこの暗記に偏った授業に戸惑う人は少なくなく、この時点で既に自尊心を破壊されて参っている同級生も何人かいた。


 長くなってしまったが当然この苦難は紗良も百も承知である。相談したいのはそちらではない。私はもう1つの理由を声を潜めて話した。


「どんなアバターにするかって話なんだけど、運営の方から『医師』でやってほしいっていう話になってて悩んでるんだ」

「へえ……」


 運営の意図は分かる。私に対していわゆる高学歴タレントとしての立ち位置を求めているのだろう。私は永瀬氏の顔を浮かべていた。彼は何を考えているか読み切れないところがあるが、採用する時点でこのことを計算に入れていてもおかしくない。

 ライバーのアバターは天使や獣人、妖精と言った架空の存在が多くを占めており、東大生や京大生といった肩書は世界観にそぐわない。一方でIRISは例外的に漁師やプログラマー、教師と言った現実にある職業を名乗るライバーが少数ながらいて、医師ならばさほど違和感がない。


「それで、美菜はどうしたいわけ?」

「うーん、確かに医療の話題とかが話しやすいって割と魅力的なんだけど、一番やりたいことはそれじゃないし、そもそも私、まだ医者じゃないからなあ」


 日々の授業で自信を失っていた私と紗良は、消極寄りの意見を言いつつも結論を出すことが出来ず、解剖実習初日直前の貴重な昼休憩を無駄に過ごすことになった。


「いよいよ解剖実習かあ」

「美菜、私が倒れたら介抱よろしくね」

「班が違うんだから、無茶言わないで」




 私たち2年生は実習棟の更衣室で実習着に着替えて解剖実習室に向かう。実習着は手術衣によく似た薄青色で、下は人によってランニングやジャージなどバラバラだった。実習が終わるころにはが染みついてしまうので捨てなければならない。


 実習室にはホルマリンが立ち込め、鼻を酸っぱく刺激する。体育館のように広いが、天井は低く窓はない。そのせいか妙に狭苦しい。数十のステンレス製の実習台が点々と置かれ、それぞれにファスナーで綴じられた灰色の袋が安置されていた。私はその中を想像し、思わず唾を飲み込んだ。

 

 同じ実習班の4人でで1つの実習台を囲み、袋を開いた。70代くらいの男性だろうか。私は2年前に亡くなった祖父を頭に浮かべた。祖父は何もなかった私に医師の道を勧めた張本人である。今の私を見て、どう思うだろうか。


「黙祷」


 『夫人』の指示に従って、全ての学生が目を閉じ、ご遺体に黙祷を捧げる。

 

 最初の手順として、胸部の上端から股の付け根にある恥骨付近までまっすぐにメスを入れる。私はご遺体の右腕の外側に立ち、前胸部に左手を添えて一刀を入れようとする。


 ――思ったよりずっと固く、メスの刃は皮膚を通らなかった。おそらくホルマリンに漬かっていたせいだ。私は一呼吸おいて顔を上げると、ご遺体の顔が目に入った。そのとき、私は聞こえるはずのない声を耳にした。


「私との約束を忘れたか、美菜――」


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