15 髪をほどかない理由


「だって、他の夫婦でしたら、一緒の寝台で眠ることは、当たり前のことなのでしょう? 妻の務めを果たせないわたくしですけれど、せめて――」


「違う」


 不意に、力強い腕に抱き寄せられる。広い胸板に顔が押しつけられ、強制的に言葉を遮られた。


「違うよ、エルシャ。きみはちゃんと妻の務めを果たしてくれている」


 息ができなくなりそうなほど、きつく抱きしめたジレンが、強い声音で断言する。


「ずっと好きだったきみと夫婦になることができて、きみがそばにいてくれるだけでこんなに幸せなんだから……。妻の務めを果たせていないわけがないだろう?」


 耳朶じだを撫でるジレンの低い声が、身体に染み込んで心の芯まで震わせる。ぎゅっと抱き寄せた腕は、言葉では言い尽くせない想いを伝えるかのようで。


「身体を重ねて、子どもを産むことだけが夫婦の役割じゃない。わたし達は二人で幸せになるために結婚したんだ。だから……。そんな風に自分を卑下しないでくれ」


「すみま――、っ!?」


 苦い声に反射的に謝罪しようとすると、不意に腕を緩めたジレンにくちづけられた。


「謝るのはなしだよ」


「で、でも……っ」

「でも、もナシ」


 くすりと笑ったジレンがふたたびエルシャの口をふさぐ。


「わたしはきみに謝らせるために来たわけじゃないからね」


「じゃ、じゃあ……っ」


 言葉を間違えると、また口をふさがれそうだ。ジレンの黒曜石の瞳は、くちづけの機会を狙っているかのように、悪戯っぽくきらめいている。


 何と言えばいいのか迷った末、結局エルシャは心に浮かんだ想いを素直に口にした。


「わたくしと結婚してくださって、ありがとう、ございます……っ」


 嘘偽りのない生粋きっすいの本心。


 いつの頃からか抱いていた淡い恋心が実る日が来るなんて、少し前までは考えもしなかった。


 薄界と濃界。ラグシャスト領にとっては隣の領より近いのに、エルシャひとりの力では、決して暮らしていけない世界。


 だから、こんな日が来るなんて想像もしていなかった。


 エルシャの言葉に、虚をつかれたようにジレンが目を瞬く。次いで、とろけそうに甘やかな笑みが浮かんだ。


「わたしこそ、結婚してくれてありがとう。どれほど感謝してもしたりない」


 呼気がまつげを震わせたかと思うと、三度みたびくちづけられる。

 先ほどのくちづけよりも、深いくちづけ。


「ジ、ジレン様、今度こそ間違えませんでしたでしょう!?」


 なのに、どうしてまた口をふさがれるのか。


 面輪を離した黒曜石の瞳を睨み上げると、「だからだよ」と笑んだ声が返ってきた。


「きみが幸せでいてくれることが嬉しくて、もっとくちづけたくなった」


 エルシャ、と甘く呼んだジレンの面輪がふたたび近づいてくる。


「ん……っ」


 柔らかく下唇をまれ、無意識に声がこぼれてしまう。


 は、と肌を撫でるジレンの吐息の熱さに、あぶられた蝋のように融けてしまいそうだ。


「エルシャ……」


 長い指先が愛おしげにほどいたままの金の髪をく。撫でられるたび、身体のこわばりもほどけていく心地がする。


「そういえば……」


 ふとした疑問が心によぎり、エルシャは好奇心に誘われるまま口にする。


「どうして、濃界ではほどいた髪を異性に見せてはいけないのですか?」


 ユイトウの角に絡まってしまった髪をほどく間、ジレンはなんとも言えない微妙な表情をしていた。


 怒りたいのを我慢しているような、同時に気恥ずかしそうな……。


 問うた瞬間、髪を梳いていたジレンの手がぴたりと止まる。


「それ、は……」

「? それは?」


 言い淀んだジレンが不意にエルシャを抱きしめる。


 頬ずりするように顔を寄せた拍子に、ジレンの魔角が髪をかすめた。金の髪が数筋、黒曜石をけずり出した魔角に絡む。


 ジレンの熱を孕んだ囁き声が、エルシャの鼓膜を震わせた。


「ほどいた髪を見せないのは、髪を角に絡ませないようにするためだ。魔角に髪が絡むほど近づくのは……。よほど親しい者同士だけだから」


「ひゃ……っ!?」


 硬い魔角が頬にふれたかと思うと、耳朶を食まれる。逃げようと反射的にかぶりを振った拍子に、魔角にさらに髪がひっかかった。ごつごつとした黒い魔角を金の髪がさらさらとすべっていく。


 顔を背けてあらわになった首筋を、ジレンの唇が辿っていく。その熱さに意思も何もかも融けてしまいそうだ。


 押し返そうとした手のひらを長い指先に絡めとられる。寝台に縫いとめた力はエルシャではかなわないほど強くて。


「ジ、ジレン様……っ!? あの……っ、ひゃあ!?」


 身じろぎしている間に緩んでしまったのだろう。夜着の合わせから覗いた鎖骨にくちづけられ、悲鳴が飛び出す。


「わ、わかりましたっ! ちゃんと理由はわかりましたから……っ!」


 ぎゅっと目を閉じ祈るように叫ぶと、ようやくジレンが止まった。


 だが、エルシャの首元に顔を伏せたまま、ぴくりとも動かない。


「あの、ジレン様……?」


 掴まれていないほうの手で、そっとジレンの黒髪を撫でると、広い背中がおののくようにびくりと揺れた。つながれた手に、何かをこらえるようにぎゅっと力がもる。


 そのまま、しばらくの沈黙が流れ。


「……かぐわしい花の魅力に囚われて、道を踏み外して谷底へ落ちるところだった……」


 はぁっ、と身体にこもったものを吐き出すように大きく吐息したジレンが、低い声で呟く。


 だが、顔を上げ、エルシャと視線を合わせた瞳には、いつものジレンと同じ穏やかな光が宿っていた。


「……わかってくれたかい?」


「はいっ! 濃界では人前で髪をほどかないようにしますっ!」


 こくこくこくっ! と大きく頷くと、ジレンがほっとしたように表情を緩めた。


「わたしの前では、ほどいてほしいけれどね」


 魔角に引っかかってしまった髪を優しくほどいたジレンが、手にした髪にそっとくちづける。


 それだけで、もうこれ以上あがらないだろうと思っていた熱が、さらに一段高くなる。顔だけでなく全身が熟れた林檎りんごみたいに真っ赤になっているに違いない。


 何か言わないとと思うのにうまく言葉が出てこなくて、意味もなく口をぱくぱくさせていると、ふっとジレンが笑みをこぼした。


「さっきも言っただろう? きみに無理強いをするつもりはないよ」


 ぽふん、と枕に頭を落としたジレンが、そっとエルシャを抱き寄せる。

 濃界人は魔角があるからだろうか。こちらの枕は薄界よりも柔らかくてふこふこだ。


 なだめるように頭を撫でられているうちに、騒いでいた鼓動が落ち着いてくる。夜着ごしに感じるジレンの身体は大きくて頼もしくて、包まれているうちに羞恥よりも安堵のほうが増してくる。


 柔らかな枕と頭を撫でる優しい手に、どこかに飛んで行ってしまっていた眠気がゆっくりと身体を満たしていくのを感じる。小さくあくびを噛み殺すと、くすりとジレンが笑う声が聞こえた。


「今日は疲れただろう? ゆっくり眠るといい」


 穏やかなジレンの声は、まるで子守歌のように心地よい。


「他の夫婦とは違うんだ。わたし達はわたし達の速さで歩んでいこう。……おやすみ、エルシャ」


「おやすみなさいませ、ジレン様……」


 こくん、と頷き、エルシャは押し寄せる眠気に意識を手放した。


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