14 わたしが寝かしつけてあげようか?


 和気あいあいとした食事を楽しんだあと、ジレンが濃界で暮らしていた頃の隣室の客間に通されたエルシャは、侍女の手を借りて夜着に着替えた。


 侍女が持ってきてくれた夜着も濃界の衣装だった。ガウンのように前で合わせる形のゆったりとした夜着で、柔らかな素材の帯を前で結ぶようになっている。


 帯で締める夜着を着るのは初めてなので、新鮮な感じだ。……寝ている間に寝乱れないかが心配だが。


 身体は疲れているはずなのに、初めて足を踏み入れた濃界に興奮が冷めやらぬのか、まだ頭は冴えていて、眠気を感じない。


 寝台に入っても寝つける気がせず、薄界から持ってきた魔道具作りのための道具の確認でもしようかと考えていると、客間の扉が遠慮がちに叩かれた。扉越しに聞こえてきたのは、耳に心地よく響くジレンの声だ。


「エルシャ。まだ、起きているかい? ……その、入らせてもらっても?」


「もちろんです。いま開けますね」


 寝る寸前のこんな時間にどうしたのだろう。エルシャの体調が心配になったのだろうか。


 扉を引くと、薄く開いた隙間から、ジレンが長身をすべり込ませた。


 ジレンが身につけているのもエルシャと同じ濃界の夜着だ。色もエルシャと同じ深い青色で、男性にしては色白のジレンによく似合っている。


「どうかなさったんですか?」


 問いかけてすぐ、それよりも先に告げねばならないことを思い出す。


「あのっ、ジレン様! 本当にありがとうございますっ!」

 深々と頭を下げて礼を言う。


「本来なら、私が自分でちゃんと濃界行きの準備をしなければならなかったというのに、すっかりジレン様にお任せしてしまって……。かなりのお手間をおかけしてしまいましたでしょう?」


 ハイレンやユイトウ達と連絡を取り、大量の荷物を準備して送り……。


 ラグシャスト領からろくに出たことのないエルシャには、旅の準備がどれほど大変なものなのか想像することしかできないが、ジレンが手間暇をかけてくれたのは、こちらに来てからの数刻の間に嫌というほど理解できた。


「顔を上げてほしい。わたしが好きでしたことなんだから」


 ジレンの声におずおずと身を起こして見上げると、白皙の美貌が柔らかな表情を浮かべてエルシャを見下ろしていた。


「それより、どこか不調を感じたりしていないかい? 熱っぽいとか、身体が重いとか……?」


 心配でたまらないと言いたげなジレンに、笑ってかぶりを振る。


「大丈夫です! 具合が悪いところなんてひとつもありません。むしろ、明日はローニン様の魔道具を見られると思うと、わくわくして寝つけそうになくて……」


「それなら」


 不意に、ジレンの口元に悪戯っぽい笑みが浮かぶ。


「わたしが寝かしつけてあげようか? ……もともと、そのつもりで来たのだし」


「……え? えぇぇぇぇ……っ!?」


 ジレンの言葉の内容を理解した瞬間、すっとんきような叫びが飛び出す。


「えっ!? あ、あのっ、その……っ!?」


 驚愕のあまり、ちゃんと言葉が出てこない。

 一瞬で顔が燃えるように熱くなったのがわかる。ばくばくと跳ね回る心臓が口から飛び出しそうだ。


 エルシャとジレンはもう半月も前に結婚式を挙げている。ふつうの夫婦なら何ということもない話題だろう。だが……。


 エルシャとジレンはまだ、一度も寝台をともにしたことが、ない。


「エルシャ、落ち着いて」


「ひゃっ!?」


 苦笑したジレンが、なだめるようにエルシャの頭を撫でる。ほどいたままの金の髪が大きな手の動きにあわせて肩をすべった。


 だが、落ち着かせようというジレンの意図とは裏腹に、エルシャの心臓はさらにぱくぱくと騒ぎいでしまう。


「心配はいらないよ」


 優しい手のひらと同じ、柔らかな声がエルシャの不安を融かしていく。


「ただでさえ魔素が濃い中で、大切なきみに手を出したりするつもりなんてない。けれど……。いまは体調に変化はないとはいえ、きみをわたしの目がないところで長くひとりきりにしておくのが、どうにも不安で……」


 心配にあふれた真摯な声。


 エルシャとて、ジレンにそのつもりがないのは承知している。エルシャとジレンがまだ本当の夫婦になっていないのは、ジレンが己の身体に宿る魔素がエルシャに影響を及ぼすのを恐れているからだ。


 薄界と濃界が互いの世界を知ってから約百五十年。


 だが、薄界人と濃界人が結婚して子どもをもうけたという話は、ほとんど聞いたことがない。


 薄界人が濃界で暮らすことができず、また、濃界人も薄界で暮らす者が数少ないからだが……。ひょっとすると、正式に結婚したのはエルシャとジレンが初めてかもしれないという珍しさだ。


 ジレンがエルシャを大切に想ってくれているからこそ、いまはまだ、寝台をともにする気がないのだと、ちゃんと理解している。だからこそ、エルシャのほうから話題にしたことは、いままで一度もなかった。


 何より、たとえ子どもが授からなくともかまわないと覚悟を決めた上で、ジレンと結婚したのだ。


 それでもいいから、ジレンとともに人生を歩みたくて。


 だから――。


「そ、その、ジレン様が望まれるのでしたら、私に否など……っ」


 ありったけの勇気を振り絞って告げると、頭を撫でていた手がぴたりと止まった。

 かと思うと、ジレンが片手で顔を覆ってそっぽを向く。


「ジ、ジレン様っ!?」


「……だから、それほど惑わせないでほしいと夕食前にも……」


 手のひらの間から低い声が耳に届いたが、不明瞭でちゃんと聞こえない。


「あの……?」


 問いを紡ぐより早く、顔から手を離したジレンが身を屈める。次の瞬間、エルシャはジレンに横抱きに抱き上げられていた。


「ひゃあっ!?」


 驚くエルシャにかまわず、寝台に歩を進めたジレンがそっとエルシャを敷布の上に下ろす。


 口を開けば心臓が飛び出しそうで、唇を引き結んで白皙の美貌を見上げていると、ジレンが困ったように苦笑した。


「無理強いをするつもりはないよ。きみに嫌な思いはさせたくない。別にわたしはそばのソファでも――」


「ジレン様をソファで寝かせるなんてとんでもないことですっ! ソファで寝るなら私が寝ますっ!」


「きみをソファでなんて、そんなこと許せるわけがないだろう」


 起き上がろうとした肩を掴まれ、押し倒される。決して強い力ではないのに、寝台に縫いとめたかのように動けない。


「で、では……」


 寝台に身を乗り出しすジレンを見上げ、エルシャは緊張にひりつく喉をどうにか動かす。


「最初におっしゃっていたように、そ、その……。隣に、来ていただけますか……?」


 もぞりと動くと、ジレンの手が肩から離れた。寝台の端により、空いた敷布をぽふぽふと叩くと、ジレンの面輪にとろけるような笑みが浮かぶ。


「きみが許してくれるのなら」


 ジレンの重さに寝台がかすかにきしむ。


 緊張に身を硬くしていると、ジレンが引き上げた掛布がそっと身体にかけられた。


 ジレンがすぐ隣で横になっていると考えるだけで、顔だけでなく全身から火が出そうだ。


 まだ小さかった頃は、遊び疲れてジレンと二人、木陰で昼寝したことだって何度もあったのに……。


 いまは眠るどころか、どきどきしすぎて眠気が遥か彼方へ吹き飛んでしまっている。


 まぶたをつむれば眠気が戻ってくるかと、ぎゅっと目を閉じると、くすりとジレンが笑う声が聞こえた。


 おずおずと開けた視界に入ったのは、先ほどと同じジレンの困り顔だ。


「……すまない。困らせてしまったな。わたしがそばにいては、きみが寝つけなさそうだ。やっぱり――」


「だめですっ!」


 身を起こそうとしたジレンの夜着の合わせを、反射的に掴む。


「行かないでください……っ!」


「エルシャ?」


 告げる声が震える。ジレンが驚いたように黒曜石の目を瞠った。


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