12 ……けれど、わたしは心配でね


「そうだな、なんと説明すればいいのか……。たとえば、小屋の中でお湯を沸かして、器に入れたとしよう。けれど、小屋の外が雪山だったら、器を外に持って行くと、どうなるかな?」


「え……? その、すぐに冷めてしまうと思いますが……?」


 ごく当たり前のことを答えたエルシャに、ハイレンが満足そうに頷く。


「うん、そのとおりだ。魔素に満ちた濃界で育った動植物には、もちろん魔素が含まれている。けれど、魔素がほとんど存在しない薄界に持ち出すと、あっという間に魔素が抜け出てしまうんだ。まあ、中には抜け出にくいものもあるんだけれど……。そういったものは、交易品からは外すことになっている。もし、万が一のことが起こったら、せっかく結ばれた絆にひびが入りかねないからね。ああ、抜け出た魔素については心配しなくていい。風などですぐに拡散されて、薄界人に影響がないくらいまで薄まってしまうから」


 エルシャの表情を読んだかのように、ハイレンがにこりと笑う。


「で、先ほどの質問の続きだけれど、お湯を沸かした小屋の外が、雪山ではなくて灼熱しゃくねつの炎天下だとどうなるかな?」


「それだと、なかなか冷めませんよね? つまり……。濃界の動植物を濃界で食べると、魔素が抜けていないので、薄界人の身体にはよくないということですか……?」


 ハイレンが言わんとすることをようやく理解する。


「うーん。正直、どこまで影響があるのかはわからないのだけれどね」


 苦笑したハイレンの語尾にかぶせるように口を開いたのはジレンだ。


「ですが、影響がわからないのなら、危険を冒すべきではありません。外からの魔素については、加護の魔法をかけているので大丈夫でしょうが……。食べ物によって、体内から魔素を吸収した場合、どうなるかわからないのですから、濃界の食べ物は口にしないほうが確実でしょう」


「……と、ジレンがかたくなに言い張るものでね」


 肩をすくめて告げたハイレンが、エルシャを見て楽しげに笑う。


「ジレンはエルシャ嬢のことが心配でたまらないらしい。エルシャ嬢が滞在する間の食糧の準備をしたのもジレンでね。これほど誰かに心を砕くジレンは初めて見たよ」


「兄上! わたしが勝手にしたことです。エルシャにとがは何も……っ!」


「それは承知しているよ。……けれど、わたしは心配でね」


 弟の抗議をいなしたハイレンが、じっとエルシャを見つめる。


「……大丈夫かい? きみを心配するあまり、ジレンがきみを束縛しているなんてことは……?」


「いいえっ! そんなこと、決してありませんっ!」


 間髪入れずに「とんでもないっ!」とかぶりを振る。


「ジレン様は縛りつけることなんて、一度もなさったことなどありませんっ! 今回の濃界行きのことも、決定してからは本当に熱心に準備を助けてくださって……。むしろ、自分のことだというのに、何も学ぼうとせず、ジレン様に任せきりにしてしまっていた己が情けない限りです……」


 しゅん、と肩を縮めてうつむくと、不意に隣に座るジレンにテーブルの下でぎゅっと片手を握られた。


「エルシャ。お願いだから自分を責めないでほしい。濃界行きの準備は、わたしがしたくてしたことだ。きみは魔道具の修理の準備で手いっぱいだったのだし、何より濃界についてくわしいのはわたしのほうなのだから、わたしが準備をするのは当然のことだろう?」


 エルシャの手を握ったまま身を乗り出したジレンが、熱心に言い募る。


「ジレン様……。本当に、ありがとうございます」


 濃界に行くエルシャのために、ジレンがどれほど心を砕いてくれたのかと考えるだけで、いくら感謝してもし足りない。きっと、エルシャが気づいていないだけで、さまざまなところで助けてもらっているのだろう。


 あふれる感謝の気持ちを少しでも伝えたくて、真摯な声音で礼を告げると、黒曜石の瞳が柔らかな弧を描いた。


「礼など不要だ。わたしがしたくてしたことなんだから」


「……どうやら、わたしの杞憂だったみたいだね」


 ハイレンの笑んだ声に、無意識にジレンに見惚れていたエルシャははっとして視線をそちらに向ける。ハイレンだけではない。ユイトウとマルナも、微笑ましいものを見るような穏やかなまなざしでエルシャ達を見つめていた。


「ジレンが独占欲を暴走させているんじゃないかと心配だったが……。そんな心配が馬鹿らしいほど、仲睦まじいようだ」


「あ、兄上……っ! わたしは別に、独占欲を暴走させてなど……っ!」


「おや? 自覚がないのかい?」


 からかうような兄の声に、とっさに言い返せなかったらしいジレンが唇をひん曲げる。


 エルシャの前ではいつも泰然としているジレンが、ねたような表情を見せるのは珍しい。


 こんなジレンを見られただけでも濃界に来た価値があると、エルシャは心の中で密かに喜んだ。


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