10 似合わないなんてとんでもない!


「すまない。驚かせてしまったな」


 告げる間も、ジレンのまなざしはエルシャに固定されたままだ。


「や、やっぱり、似合わなくて変ですよね……」


 ぶれないまなざしから逃げるように視線を伏せる。


 きっと先ほど聞こえた言葉は空耳だ。呆れられてしまったに違いない。


 噛んではいけないとわかっているのに薄く紅を引いてもらった唇を噛みしめると、「とんでもないっ!」と鋭い声が降ってきた。


 びっくりして視線を上げた途端、真剣極まりない光を宿したまなざしに射貫かれ、息を呑む。


「似合わないなんてとんでもない! その、先ほど反射的に目を逸らしてしまったのは……」


 エルシャの身体に回された腕にそっと力がこもる。


 長身のジレンが顔を伏せるとエルシャの肩に鼻先がふれ、魔角に簪に当たった簪が硬質な音を立てた。


「一瞬できみに目が奪われてしまったのを知られるのが気恥ずかしくて……。だが」


 ふっ、とこぼされた呼気がエルシャの首筋をくすぐる。


「無駄な抵抗だったな。きみの美しさに魅入られて、もう、目を離すことさえできない」


 ゆっくりと身を起こしたジレンが、真っ直ぐにエルシャを見下ろし、にこりと微笑む。


「本当に、綺麗だ。花嫁衣装を着たきみを見た時も美しさに息が止まるかと思ったが……。故郷の衣装を着たきみの美しさも、格別だ」


「……っ!?」


 甘やかな笑みに、一瞬で気が遠のきそうになる。心臓が口から飛び出しそうだ。


「……ほ、本当に……?」


 ジレンの言葉を疑うわけではない。けれど、信じられない気持ちが強くて小さな声で呟くと、ジレンが悪戯っぽく唇を吊り上げた。


「信じてもらえないのかい? こんなにも、きみに魅入られているのに」


「そんなにじっと見つめられたら、恥ずかしいです……」


 熱を孕んだまなざしから逃げるべく顔を伏せようとすると、それよりも早く、ジレンの大きな手のひらにそっと頬を包まれた。


「うつむかないでほしい。濃界の衣装を纏ったきみを見られる希少な機会なのに……。もっとじっくり見せておくれ」


 逃さないと言外に伝えるように、エルシャの腰に回されたジレンの腕に力がこもる。


「綺麗だ。きみの瞳と同じ青色の衣装も、美しく結い上げた金の髪も、華やかな簪も……。どれだけ見ても、見飽きそうにない」


 間近でエルシャを見つめるジレンの黒曜石の瞳に、着飾ったエルシャの姿が映る。まるで、ジレンに不可視のおりに囚われてしまったように身体が動かせない。


 と、ジレンが肺の中の空気を絞り出すように吐息した。


「きみの新しい魅力を引き出してくださった母上と義姉上には感謝しかないが……。きみの艶姿あですがたを他の者にも見せなければならないなんて、何という試練だろう……」


「そ、そうですわっ、お義母様達がお待ちでしょうから、早く参らなくては……っ!」


 どきどきしすぎて、すっかり頭から抜け落ちてしまっていた。


 身じろぎし、ジレンの腕の中から逃れようとすると、「もう少しだけ」と引きとめられた。


「もう少しだけ……。きみをわたしだけものにする幸福を味わわせてもらえないだろうか……?」


 目を覗き込んでそんなことを言われたら、エルシャに断れるわけがない。


 沈黙を了承と受けとったのか、ジレンが両腕をエルシャに回し、ぎゅっと強く抱きしめる。


 ぱくぱくと鳴る鼓動も互いの熱も、混ざりあってひとつに融けてしまいそうだ。


 いつも理性的なジレンがこんな風に心情を吐露するなんて、本当に珍しい。


 恥ずかしさと同時に、言いようのない嬉しさが心の中にあふれてくる。


「……そんなことをおっしゃらなくても、わたくしはジレン様だけのものですのに……」


 くすりと笑みをこぼして告げると、ジレンが黒曜石の瞳をみはった。


「……いまの姿でそんなことを言うなんて……。どれほど、わたしを惑わせるつもりだい?」


 甘い声音で囁かれ、切れ長の目が柔らかく弧を描いたかと思うと端整な面輪が下りてくる。


「エルシャ……」


 閉じたまぶたに呼気がふれ、唇があたたかなものにふさがれる。

 激情を抑えつけているかのような、いつもより深いくちづけ。


「ん……っ」


 思わず声を洩らすと、くちづけがさらに深くなる。反射的に逃げようとした身体は力強い腕に阻まれた。言葉よりも力強く、ジレンの腕が逃さないと告げる。


 このままでは腕の中で融けてしまうと心配になったところで、ようやくジレンの面輪が離れた。


 は、と洩れた熱い呼気はどちらのものか、エルシャにはわからない。


「……食事なんて、もっとずっと後回しでよいのに」


 もう一度エルシャを抱きしめたジレンが不満をこぼす。ねた子どもみたいな呟きに、エルシャは思わず吹き出した。


「そんなわけにはまいりませんでしょう? お義母様やお義兄様達をあまりお待たせするわけにはまいりません」


 なだめるように告げながら視線を上げたエルシャは、ジレンの口元に気づく。


「すみません、口紅が……」


 手を伸ばし、ジレンの唇についてしまった紅をぬぐおうとすると、大きな手に指を絡めとられた。そのまま、はむ、と指先をまれ、「きゃっ」と悲鳴が飛び出す。


「ジ、ジレン様……っ!? 何を……っ!?」


「食事などより――」


「わたくしを食べるほどおなかが空いてらっしゃるのなら、早く食事に参りましょう!」


 いったいジレンはどうしてしまったのか。


 憤然と告げると、動きを止めたジレンがふはっと吹き出した。


「……そうだな。確かに、空腹すぎるのはよくない。飢えている分、ほんの少しの美酒で酔いが回ってしまいそうだ」


 懐から手巾を取り出したジレンが、エルシャの指先と己の口元をささっとぬぐう。


「すまない。行こうか」


 いつもと同じ、穏やかな笑みを浮かべたジレンにエスコートされ、エルシャは食堂へと向かった。


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