9 そろそろ愛しの花嫁を息子に返してあげましょうか


「母上! 義姉上! いい加減、エルシャを返してくださいっ! エルシャは無事ですかっ!?」


 どんどんどんどんっ! と激しく扉を叩く音と同時に、我慢の限界だと言わんばかりにエルシャの耳に届いたのは、ジレンの焦った声だった。


 玄関でユイトウとマルナに連れて行かれてから、すで一刻は経っているだろう。ジレンがエルシャを心配する気持ちもわかる。


 が、母親であるユイトウは悠然としたものだ。


「エルシャはもちろん無事ですよ。少し落ち着きなさいな。落ち着きのない狭量な男は嫌われるわよ」


「狭量でもかまいませんっ! エルシャは先ほど濃界に来たばかりなんです! わたしが心配するのも当然でしょう!?」


「ジ、ジレン様は狭量ではありませんし、ジレン様を嫌うなんてこと、ありえませんっ!」


 ジレンの声とエルシャの声が、扉の向こう側とこちらで同時に響く。ユイトウとマルナが「あらあら」「まあまあ」と顔を見合わせて吹き出した。


「仲のよいこと。そうね。ではそろそろ愛しの花嫁を息子に返してあげましょうか」


「ええ、とっても楽しませていただきましたもの。ありがとう、エルシャさん」


「い、いえ。わたくしこそ、こんな素敵にしていただきまして……。ほんとうに、ありがとうございます」


 侍女達とともに立ち上がったユイトウとマルナに、エルシャもあわてて立ち上がり、深々と頭を下げる。その拍子に、かんざしの銀の飾りが揺れ、しゃらりと澄んだ音を立てた。


 うふふ、とユイトウとマルナだけでなく、支度を手伝ってくれた侍女達も満足そうな笑みをこぼす。


「叶うなら、あなたの姿を見たジレンがどんな反応をするのか見てみたいけれど……。それは野暮というものね」


「きっと、晩餐の席でじっくりと見られますわ、お義母様」


 ジレンをこの部屋へ招くので、戸口に置いてある衝立ついたてのこちら側には出てこないようにとユイトウに言われ、エルシャは素直に頷く。


 ユイトウやマルナ、侍女達は口々に褒めそやしてくれたし、鏡を見たエルシャ自身もいつもの自分とは別人のようだと感じたが、果たしてジレンはどう思ってくれるだろうか。


 どきどきと高鳴る鼓動を感じながら、部屋の奥で居心地悪く立っていると、衝立の向こうで扉が開く音がした。かと思うと、「エルシャはどこですか!?」と嚙みつくようなジレンの声が響く。


 これほど焦っているジレンの声は、エルシャも滅多に聞いたことがない。


「だから、落ち着きなさいと言っているでしょう? 勝手にエルシャを連れて行ったことは悪かったけれど、そんなに怖い顔をしていては、彼女を怯えさせてしまうわよ?」


「う……っ」


 ユイトウのたしなめる声に、ジレンが低く呻いた声が聞こえる。ユイトウがくすりと笑みをこぼす気配がした。


「あなたが心配するようなことは何も起こっていないわよ。気になるなら、自分の目で確かめてごらんなさい。わたくし達はもう席を外すから」


 ユイトウ達が出ていく足音と入れ違いに、衝立を回り込むジレンの気忙しい足音が聞こえる。


 いったいどんな反応をされるのか見るのが怖くて、エルシャは反射的にぎゅっと目を閉じた。が……。


「っ!?」


 鋭く息を呑む音が聞こえたきり、何の音も聞こえない。


 そのまま、しばしの沈黙が落ち。


 おずおずとまぶたを開けたエルシャが見たのは、こちらを見たまま、凍りついているジレンの姿だった。


 エルシャが支度をしている間に、ジレンも湯浴みして着替えたのだろう。


 いまのジレンはマント姿でも薄界の服装でもなく、ハイレンが着ていたのと同じ濃界の衣装に身を包んでいる。ジレンとは長いつきあいだが、濃界の衣装を着ているところを見たのは、まだ十歳くらいでジレンがラグシャスト領に来て間もない頃だけだ。


 幼いなりに早く薄界になじもうとしていたのだろうと、エルシャはジレンの努力にいまさらながらに気づく。


「あ、あの……」


 かすれた声を上げたエルシャの視線が、ジレンのまなざしとぱちりと合う。


 途端、ジレンが見てはいけないものを見たかのように、ぱっと視線を逸らした。横を向いた端整な面輪は奥歯を噛み締めているのか、硬く張りつめている。


 きっと、似合わぬ衣装を着ているエルシャに呆れているのだ。そう思った途端、全身に震えが走る。


「も、申し訳ありません……っ!」


 震える声を絞り出した途端、弾かれたようにこちらを見たジレンが黒曜石の目をみはる。


「いやっ、違う! 違うんだっ、その……っ!」


「ジレン様っ!?」


 謎の言葉を叫びながら不意に床に片膝をついたジレンに、驚いて駆け寄る。


「どうなさいましたかっ!? どこか体調が……っ!?」


 魔蚕の衣装を着ていることも忘れ、床に両膝をついてジレンの顔を覗き込む。簪の飾りがしゃらりと鳴った。


「大丈夫ですかっ!? すぐにユイトウ様達をお呼び――、っ!?」


 小柄なエルシャでは、長身のジレンは支えられない。ユイトウ達を呼ばねばと声を上げようとした瞬間、不意に力強い腕にぎゅっと強く抱きしめられた。


「大丈夫だ。母上達を呼ぶ必要なんてない」


 耳元できっぱりと告げるジレンの声が聞こえる。


「で、ですが――」

「その」


 エルシャの言葉を遮るように、身体に回されたジレンの腕に力がこもる。


「その……。あまりにきみが綺麗で、見惚れてしまっただけなんだ。感動のあまり、立っていることもままならなくて……」


 照れ隠しのような低い声。


 だが、エルシャは何を言われたのか、とっさに理解できない。


「み、みほ……っ? えぇぇっ!?」


 身を離そうとするもジレンの腕はゆるまない。


 耳元でぱくぱくと騒がしい鼓動が鳴っている。自分の心臓のものだと思っていたけれど、もしかして……。


 おずおずと顔を上げると、じっとエルシャを見下ろす黒曜石の瞳と視線があった。


 見つめられるだけでちりちりと肌があぶられるような、熱を孕んだまなざし。


「あ、あの……」


 何を言えばいいのかわからず、かといって黙っていると身体の中を巡る熱にあてられて気を失ってしまいそうで、エルシャは自分の中の熱を吐き出すように声を洩らす。


 エルシャの声に、ジレンが我に返ったように立ち上がり、エルシャに手を貸してくれる。


 だが、エルシャの身体に回した腕はそのままだ。


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