3 どこか不調を感じているところはないかい?


「ふぁあ……っ!」


 なんだか、身体全体がふわふわする。雲の上を歩いたらこんな感じなのだろうか。


 これほど不思議な場所があるなんて、信じられない気持ちだ。


「このまま、昇降機のほうへ進もう。昨日のうちに送ったわたし達の荷物はどうなっている?」


「すでにハイリーン領へお送りしております。すでにお屋敷に届いているかと」


 背後を振り返って尋ねたジレンの言葉に、男達の中でも年かさのひとりが恭しく答える。


 『絆の大岩』のところで落下速度が落ちるため、厳重に梱包した荷物ならば、『大穴』の中央から落とすのが一番早い届け方だ。穴が大きく岩壁から離れているため、よほどのことがない限り、壁にぶつかることはない。


 とはいえ、ジレンとエルシャのように飛び降りる者は、滅多にいないらしいのだが。


「気をつけて。ここで引力の向きが変わるから」


 ふくらみそこねたパンのような形をした巨大な岩の表面に沿って歩き、ちょうど側面に来たところで、後ろに寄り添うジレンから注意が飛んできた。エルシャの手を握る指先に力がもる。


「はい、気をつけます」


 素直に頷き、慎重に歩を進める。エルシャひとりではうまく歩けなかっただろうが、ジレンがそばについていてくれれば、安心なことこの上ない。二つの世界を何度も行き来しているジレンは慣れているのか足取りも確かだ。


 大岩から木の橋を渡り、岩壁の濃界行きの昇降機へと向かう。岩壁には稲妻状に気が遠くなるほどの段数の階段も掘られているが、五十年ほど前に昇降機が作られて以来、階段を使う者はまずいないらしい。


「すごい……っ! 下から見上げると、圧倒的ですねっ!」


 垂直に切り立った岸壁に備えつけられた昇降機を前に、エルシャは抑えきれない歓声を上げる。『大穴』の縁から、昇降機を見下ろしたことは何度もある。だが、下から見上げる光景は格別だ。


 これから、この昇降機に乗って濃界へ行くのだと思うと、胸のわくわくが止まらない。


「これが、お師匠様が改良した魔道具のひとつ……っ! ジレン様っ、もう乗っても

いいんですか!?」


 後ろのジレンを振り仰ぐと、小さい子どもを微笑ましく見守るような笑みにぶつかった。


「す、すみません……っ。つい、はしゃいでしまって……っ」


 かぁっと頬が熱くなる。呆れられただろうかとうつむくと、優しく頭を撫でられた。


「わたしが初めて昇降機に乗って薄界へ来た日のことを思い出すよ。いまのエルシャみたいに浮かれていたからな」


「本当ですか?」


 隣に並んだジレンに、首をかしげて問いかける。


 十八歳のエルシャより、たった三つ年上なだけなのに、ジレンはいつも落ち着いていてはしゃいでいる姿など想像できない。


 ジレンがからかうように唇を吊り上げた。


「まあ、初めて乗ったのは六歳の頃だったからね」


「そもそも年が違うではないですかっ! そんなにお小さかったら、はしゃぐのも当然ですっ!」


 思わず頬をふくらませて抗議すると、ふはっと吹き出された。


「ごめんごめん。だが、はしゃいだのは本当だよ。さあ、昇降機の準備ができたみたいだ」


 ジレンに促され、そちらへ視線をやると、魔角族の男性が、昇降機のゴンドラのひとつに、クッションを積み終えたところだった。


 ジレンに導かれるまま、屋根付きの木でできた簡素なゴンドラに乗り込む。ゴンドラというより、小さめの荷台といった感じだ。


 基本的に、交易品を積み込むためのものなので、丈夫で簡素な造りだが、人が乗ることもあるため、端に座席も設けられている。積まれているクッションは、エルシャのためにジレンが用意させたものに違いない。木の板を打ちつけただけの座席はどう見ても座り心地が悪そうなので、ジレンの気遣いがありがたい。


 エルシャ達が乗ったゴンドラ以外には、厳重に梱包された木箱が積まれている。


 エルシャとジレンの他に乗り込んだ者はいない。そもそも、薄界と濃界を行き来する者自体がまれなのだ。


「ジレン様、動かしますよ」


 男が操作すると、すぐに昇降機が動き出す。


「うわぁ……っ! びっくりするほどなめらかですねっ! さすが、お師匠様が設計した昇降機……っ!」


 太い綱が滑るように動き、ゴンドラがぐんぐん上がっていく。


 座席に座ったまま思わず身を乗り出すと、すかさず腕を掴まれた。


 踏ん張ろうとしたが引力が弱いのに慣れていないせいか、あえなくジレンの腕の中に閉じ込められる。


「あまり身を乗り出しすぎると危ないよ。岩壁から離れているものの、綱に巻き込まれたら一大事だ」


 耳のすぐそばでジレンの美声が聞こえる。


 ジレンが優しいのはいつものことだが、濃界行きが決まって以来、いつも以上に過保護な気がする。


 いつものジレンなら、人目があるところで抱きしめたりなんてしない。


 エルシャは身をよじって振り向くと、だんな様の美貌を見上げた。


「ジレン様……。どうか、なさったんですか? その、やっぱり……。怒ってらっしゃいますか?」


 地下世界――濃界行きに最後まで強固に反対していたのは、他の誰でもないジレンだった。


『いくら叔父上の一番弟子とはいえ、エルシャが自ら行く必要はないでしょう!? どんな影響があるのかわからないというのに……っ! わたしは絶対反対です!』


 と言い募るジレンを何とか説得して、了承を取りつけたのだ。


 行くと決まってからは、エルシャに不便がないようにと、むしろ一番熱心に準備してくれたのだが。


「わたくしがわがままを言ったので、呆れてらっしゃいます……?」


 いけないとわかっているのに、不安のあまり声が無意識に震えてしまう。


「申し訳――」


 エルシャの謝罪を封じるように、ジレンが不意に抱き寄せた腕に力を込める。


「怒ってなどいないよ」


 エルシャの不安を払うように、ジレンの力強い声が響く。


「きみがラグシャスト領とハイリーン領のために志願してくれたのはわかっている。ただ……」


「ただ?」


 苦みを帯びた声に首をかしげて続きを促すと、眉間にしわを寄せたまま、ジレンが口を開いた。


「わたしが勝手に、心配しているだけなんだ。どうだい? そろそろ魔素も濃くなってきている。どこか不調を感じているところはないかい?」


 隠し事など許さないと言わんばかりに、黒曜石の瞳が真っ直ぐにエルシャを見据える。


 心配に満ちたまなざしを見つめ返し、エルシャは安心させるようににこやかに微笑んだ。


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