2 『絆の大岩』にて


 エルシャがもぞりと身じろぎすると、ジレンの腕がわずかに緩んだ。好奇心を抑えられず、エルシャはきょろきょろと周りを見回す。


 ジレンが言ったとおり、頭の上に大きな岩が見えた。いや、落下方向を「上」と言ってよいのかは疑問だが。


 『大穴』の上から見た時は暗くてよくわからなかったが、かなりの大きさだ。十人近い魔角族が立ち働いているのに、まだ余裕がある。


 大岩からは『大穴』のごつごつした岩壁へと二本の広い木の通路が伸びており、通路の先にあるのは地表世界と地下世界をそれぞれ結ぶ昇降機だ。


 いまや落下速度はかなり緩んでいる。風を孕んでうるさいほどはためいていたマントも、ふわふわと揺れているだけだ。


「回転するよ」


 ひと声かけたジレンが、空中で器用に上下を入れ替える。『挨拶なんて、着替えてからすればいいのだから、絶対にズボンをはくように!』とジレンが目を怒らせて言っていた理由がようやくわかった。


 もし、領主の娘にふさわしいドレスで来ていたら、大変なことになっていただろう。

 エルシャを抱きしめたまま、ゆっくりと大岩へ降りてくるジレンを集まってきた魔角族の男達が見上げている。形状はさまざまだが、どの男達の頭からもさまざまな色の角が生えている。だが、ジレンほど立派で大きな角を持っている者はひとりもいない。


「ジレン様っ!」

「里帰りでいらっしゃいますか!?」

「おかえりなさいませ!」



 飛び降りてきたのがジレンだと気づいた男達が、喜色に顔を輝かせて駆け寄ってくる。男達の言葉はもちろん濃界語だが、エルシャも幼い頃から学んで来たので、聞き取りや読み書きに不自由はない。


 男達が輪になった中心に、エルシャを腕に抱いたまま優雅にジレンが降り立った。


「ああ。今回はしばらくハイリーン領に滞在するつもりだ」


 ジレンの返答に男達が歓声を上げる。ジレンが領民達に慕われているさまを目の当たりにして、エルシャまで誇らしい気持ちになってくる。


 と、十八歳のエルシャとそう年の変わらぬだろう若者が、好奇心が抑えきれないと言いたげな様子で、ジレンの腕の中のエルシャを指さして問いかける。


「あの、ジレン様。そちらの方は……?」


 危ないのでジレンからは決して離れてはいけないと言い含められている。だが、問われて答えないわけにはいかない。


「申し遅れました」


 エルシャが若者に向き直ろうとすると、仕方がなさそうにジレンの腕がほどかれた。が、すぐさま腰に片手を回される。


 エルシャがフードを外すと、ひとつに結った金の髪が肩をすべり落ちた。途端、男達がみな、鋭く息を呑む。


 いつもどおりスカートをつまもうとして、いまはズボンだと思い出す。代わりにマントをつまみ、エルシャはにこやかに微笑んで優雅に一礼した。


「初めまして。わたくし、つい先日、ジレン様の妻となりました。ラグシャスト領主の末娘、エルシャ・ハイリーンと申します」


 エルシャの口上に、男達が凍りついたように動きを止める。ややあって。


「つ、妻……?」

「ジレン様、本当に薄界人せんかいじんと……っ?」

「ほんとに角がない……っ!」


 男達の驚きの声を、エルシャはにっこりと微笑んで受け止める。濃界人のうかいじんであるジレンと結婚すると決めた時から、こんな反応は予想していた。


 あからさまな拒絶でないだけ僥倖ぎょうこうと言うべきだ。


「まさか、ジレン様が本当に薄界人の娘を娶られるなんて……っ!」

「ジレン様ほどの御方なら、濃界人のご令嬢だってよりどりみどりだってのに……」

「いやでも、領主の娘なら身分的にはつりあいが……」

「それにめちゃくちゃ可愛い……っ!」

「金の髪が薄界にあるっていう太陽みたいだ……っ!」


 まるで珍獣を前にした時のように、男達がちらちらとエルシャを見ながら囁きあう。と。


「おい、お前達」


 ジレンが低い声を出した途端、男達がいっせいに口をつぐんで背筋を伸ばす。


「わたしのエルシャが愛らしいのはそのとおりだが、不躾ぶしつけに見過ぎだ」


「ジ、ジレン様っ!?」


 たしなめるのは絶対そこではないと思うのだが。


 驚いてジレンを振り返ろうとした瞬間、足が滑った。


 ふだんなら、何ということのない岩の上だ。だが、『絆の大岩』はふつうの場所ではない。


「ひゃっ!?」


 爪先に変に力を入れたせいで、ふわりと足が浮き上がりそうになる。

 体勢を崩した身体は、だが、すぐさま力強い腕に引き寄せられた。


「急に動くと危ないだろう?」


 呆れたように吐息したジレンが、壊れものでも扱うように、そっとエルシャを横抱きにする。


「ジ、ジレン様っ!? 下ろしてくださいっ!」


 いくら夫婦とはいえ、人前でこんな風に抱き上げるなんて、恥ずかしすぎる。


 本当は、抱き寄せられるのだって顔から火が出るほど恥ずかしいのだ。けれど、『絆の大岩』は慣れない者には危険だからと諭されて、仕方なく受け入れていたというのに。


 足をばたつかせて抗議しても、ジレンのたくましい腕はまったく緩まない。


「やはり、慣れないきみには危険だ。このまま昇降機まで運ぶからおとなしくしているように」


 エルシャの抵抗をあっさりと封じたジレンが、軽々とエルシャを抱き上げたまま、危なげなく岩の上を歩む。


 いや、実際に軽いのだ。


 『絆の大岩』は、鏡写しのように存在する地表世界と地下世界の引力が、ちょうど反転する場所だ。


 だからこそ、これほど巨大な岩が落ちることも上がることもできずに空中に浮いている。先ほど途中で落下速度が緩んだのも、互いの世界の引力が拮抗し始めたからだ。


 ジレンが言うとおり、慣れていない者がひとりでここを歩けば、すぐに体勢を崩して宙を漂う羽目になるだろう。だけど。


「ジレン様! お願いですから下ろしてくださいっ! わたくし、『絆の大岩』を自分自身で体験するのを楽しみにしていましたのに……っ! それを奪うなんて、ひどいですっ!」


 黒曜石の瞳を真っ直ぐに見つめて告げると、ジレンが仕方がなさそうに吐息をこぼした。


「エルシャの楽しみをわたしが奪うわけにはいかないな。でも、手を放してはいけないよ?」


 そっとエルシャを下ろしたジレンが、後ろから包み込むように、片手ずつエルシャの手を握る。背中にジレンの引き締まった胸板が寄り添ってくれているのを感じながら、エルシャは慎重に一歩踏み出した。


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