マーガレット

楓秋

目の前の景色が消えた。

   その日は特に雨が強い日だった。雨も風もみな我が道をゆくことしか考えていないかのような、そんな天気だった。私は母に連れられ病院に来た。日本脳炎という注射を打つらしいのだ。私は小さな頃から注射が大の苦手で、でも小学5年生になったから。

「今日は泣かないよ!」と母に少し大きな声で宣言した。ドンッという大きな音とともに目の前が真っ暗になった。私は泣かなかった。注射が終わり、待合室で母に「頭痛い」と言い残し後ろに消えていったのだという。私が目を覚ますと腕には血圧計が腕に巻かれベッドに横たわっていた。何が起きたか分からず、ただただ涙を流していた。

   小さな頃から1年に2回インフルエンザにかかったり、一度風邪をひくと二週間ぐらいは復帰できなかったりというような、一般的にいう「身体の弱い子」だったという。特に検査をすることもなく病名は診断されなかった。その日は頭がぼうっとして動けずひたすら天井を見つめていた。

   それから中学2年生になるまで気を失うこともなく、ただ平凡な日々を過ごしていた。学校も楽しかったし、友達もたくさんいたし、何も不満足なことなどなかった。ただ一つだけ不満なことがある、それは家族問題だった。私は6歳でお姉ちゃんになった。誇らしくて妹が可愛くて愛おしくてたまらなかった。しかし、それからは我慢の積み重ねだった。妹が生まれてからは母と父の関係も崩れていった。父は以前からあまり家には帰ってこなかったが、妹が生まれてからというもの、全く家に帰ってこなくなった。優しかった母も育児の余裕がなかったのか、暴力を振るうようになっていた。私を頭の後ろから急に殴ったり、手形がつくほど足を叩いたり、閉じこめたり、家に入れさせてくれなかったり。それでも私は母に歯向かうことなく、ただひたすら母の怒りが収まるのを待っていた。私が唯一許せなかったことは、妹には暴力を振るわなかったことだった。母の機嫌、顔色、声色を伺って過ごす日々をよそに、何も考えずに母に優しく育てられる妹がとても羨ましかった。私も「愛が欲しい、愛して欲しい」ただそれだけだった。人に弱さを見せることや人に甘えることを私は知らなかった。一生私は一人で生きていくのだ、とそう思っていた。

   その日は少し体調が悪かった。朝起きることがしんどくて学校にもいきたくなかったが、そんな願いは届くはずもなく。

「起きて。学校早くいきなさい。」と冷たい母の言葉が刺さり、思い足をやっとの思いで動かした。

ああ、全然先生の話が耳に入ってこない。この日は1限から学年1怖い先生の授業だった。必死の思いで授業を受けていたが限界だった。その時。

「じゃあ、ここの問題、お前答えろ。」身体全身が雷に打たれたかのようにピリついた。お前と言いながら鋭い眼差しがこちらに向けていた。終わった、と思いながら恐る恐る立ち上がる。

「わかりません。」そう言ったのは覚えていたが、その瞬間から目の前の景色が消えた。

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マーガレット 楓秋 @Autumn_k

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