問二
「買ってきた」
玄関のドアをくぐると、少女は照れたように言いながらビニール袋を掲げてみせた。
「ショートケーキにしたよ」
「うん。ありがとう」
二人、はにかむように笑い合う。その瞬間には普段の憂鬱は心から離れていた。やっと当たり前のように、人間として過ごしている感覚。
そんな感覚のままに、少年は朝からずっと考えていたことを口に出した。
「ちょっと片付けたから、今日は僕の部屋、来なよ」
「うん」
少女も浮かれているらしく、無邪気な調子で返して少年の後に続く。
「・・・初めて」
ぽつりと、また照れたようにつぶやく声を背中越しに聞き、少年はわけもなく赤面した。
部屋に入ると、少女はそっと中の様子を窺った。片付けたというわりに、部屋の隅には乱雑に物が積まれている。それでも、自分の殺風景な部屋よりはずっといい、と少女は思う。ごちゃついた部屋はなんとなく居心地が良く、少女はまた無邪気に微笑んだ。
「食べよ」
「待ってて。コーヒー持ってくる」
うきうきとした少女の様子につられ、少年も楽しげに言う。少女はこくりとうなずいて、テーブルの上にケーキの入った袋を置いた。そして座る場所を探して周囲を見回す。どこに座ればいいか少年に聞こうと目をやったときには、彼はもう部屋から出てしまっていたので、適当にテーブルの側に腰を下ろした。
何もすることのない時間には慣れている。少女はケーキを袋から出してしまうと、ぼんやりと考え事を始めた。
こんなにうきうきしながらケーキを食べようなんて言えるんだから、自分たちはまだ大丈夫なのかもしれない。きっと甘くて美味しい、と感じるはず。コーヒーだって、苦いけど美味しい、と思うかもしれない。少なくとも何も感じないことはないだろう。本当にもうおしまいなら、味も何も感じないだろうし。
でも、今苦しいことには変わらない。どうせ居場所がこの時間くらいという現実は変わらない。私たちは、苦しいとか、死にたいとか、言っていいんだろうか。
「お待たせ」
そんなことを考えているうちに、少年が戻ってくる。テーブルに置かれたカップの中身がどちらもコーヒーであることを見て、少女は暗い考えを頭から追い払って笑みを浮かべた。
「食べよっか」
「うん」
少女の言葉に頷き、少年は持ってきた皿にケーキの片方を移して少女の前に滑らせる。そして自分の分はトレイに乗せたまま、それぞれにフォークを添える。受け取った少女は目を細め、少年を上目遣いに見た。
「ありがと」
「ううん」
少年は少しどぎまぎしつつ返し、照れ隠しのようにすぐフォークを手にした。しかし、少女が手を合わせたのを見て、慌てて自分も手を合わせる。
「いただきます」
「いただきます」
少女の声に少年の声がやや慌ただしく続く。そして同じく少女の方からフォークをケーキに刺し、少年がちょっとその様子を窺ってから自分も手をつけた。
しばらく、食器が触れ合う音だけが部屋に響いた。やがて少年から口を開く。
「美味しいな」
「美味しいね」
少女も嬉しそうに返す。その調子に後押しされ、少年は用意していた話題を振ろうと、なんとか声を出した。
「あの・・・」
「なあに」
ちょっと躊躇うような間を空けてから続ける。
「ほら、ネットで探した画像・・・見せるって言ったけど」
「うん」
「どんなのがいいかな。普通に綺麗な景色とか、それとも、おしゃれに・・・加工というか、工夫して撮ってあるみたいなのとか、イラストがいいとか。あとは、何が映ってるのがいい、とか・・・何か、ある?」
考え考え、たどたどしく話す少年に、すらすらと少女が答える。
「君が綺麗だって思ったのが見たいな。それなら写真でも絵でも、どんなのでもいい」
「そっか。わかった、ありがとう」
一つ成し遂げてほっとする少年。どちらもそれ以上を続ける言葉を思いつくことができず、また食器の音だけが響く。お互い、うまく話が続けられないのを誤魔化すように自分の皿へ目を落としながら、少女はゆっくりと、少年はそわそわしつつ、ケーキを食べ進める。
「・・・でも、あれかも」
そろそろ少年がケーキを食べ終える頃、少女がカップを持ち上げながら言った。
「見せてもらう画像、ちょっと・・・退廃的っていうのかな。そんな感じのが好きかも。普通に綺麗なのも見たいけど、軍艦島とかそういう廃墟とか、路地裏っぽいところとか・・・」
思い出すような調子で、少しずつ目を伏せながら話す少女。少年はそれを一つ一つ記憶するように、まばたきをしながら聞いた。
「グロ系の・・・虫とか爬虫類とか、死体とかでもいいよ。君が綺麗だって思うなら、本当になんでも」
最後の言葉で目線を上げ、少女は照れ笑いのような表情を浮かべた。それにつられて少年も似た表情を浮かべつつも、少女の顔から目を逸らさずに答える。
「うん、いろいろ、探してみる」
そこで限界を迎えて、自信なさげに目線を落として尋ねる。
「何見ても驚かない?」
「たぶん。楽しみにしてるね」
「うん」
結局目線は少女に戻せず、少年はコーヒーに口をつける。少女も一口コーヒーをすすり、残ったケーキに手をつける。そうして二人ともケーキを食べ終わるまで、会話はなかった。
先に食べ終え、コーヒーも飲んでしまった少年は少女が食べ終えるのを待ちながら、なんとか話題を探す。しかし話しておきたかったことはもう済んでしまっているし、それ以外に共通の話題は思いつかない。いつものことなのでわかってはいたが、未だ沈黙には慣れない。
少女の方では少年が居心地悪げなことに気がついてはいたものの、食べ終えた時点でこの時間が終わるような気がして、急ぐ気になれなかった。コーヒーがだんだん冷めてしまうのを感じたり、会話のない時間が続いていることを少し気にしたり、内心焦りに似たものを感じてはいたが、それとは裏腹に手は動きを早めることはなかった。
長い沈黙が過ぎ、少女がコーヒーを飲み終える。名残惜しげな顔の少女と、安心したような残念なような、複雑な顔の少年。そんな感覚をお互いに話すこともなく、少年は食器を集める。少女はそれを黙って見つめる。
「ごちそうさま」
食器を持った少年が部屋を出ようとしたところで、少女がその背中に声をかけた。
「うん、ごちそうさま」
少年は振り向いて答える。そっと見上げる少女と目が合ったとき、今日少女がやってきたときと同じように二人で笑い合った。
食器を片付けた少年が部屋に戻ると、少女はぼんやりと、部屋の隅に積まれたものを見ていた。教科書や問題集、そのほか漫画なんかが雑多に積まれた山。少年はきまり悪く思いつつも、そこからなんとか何か話せないかと考えた。
そうして少年が少女の向かいに腰掛けると、少女はそちらへ目を向ける。その顔がふにゃりとした笑みを浮かべた。
「ねえ」
柔らかく声をかけ、少女は立ち上がると少年の真横までやってくる。
「ボクね。キミのこと、大好きだよ」
そう言って、少女は少年にしなだれかかる。少年は驚き、身を強張らせ少女を見た。少女の方ではそれをなんら気にする様子もなく、少年の顔を嬉しそうに見上げていた。
「えへへ・・・幸せだな」
少女が独り言のように言う。少年はどうしていいかわからず、少女の体を受け止めていた。その重さと体温が伝わってくる。
「幸せ・・・」
またそうため息のように吐き出して、少女は急に表情をなくして言った。
「ボクって、なんだろうね。なんなんだろう」
少年は答えられず、ただその様子を見ていた。なんでもない、としか言いようのない、喜怒哀楽の何もない顔。体から少し力が抜けたようで、少年にかかる重さが増す。
しばらく二人はそのままでいた。少女は人形のように微動だにせず少年に体を預け、少年はどうしていいかわからずそれを受け入れる。次第に少年は、そんな状況も、急に様子の変わった少女のことも、受け入れていった。事情は本人が話す気にならない限り知りようがないが、どういう事情であれ、自分だけは味方でいなければいけないと思えたのだった。
やがて少女は首だけを動かして、時計を見る。
「もう帰らなくちゃ・・・やだなぁ。このままでいたいのに・・・」
少年が何か言う前に、少女はのそのそと立ち上がって、軽くふらついた動きで少年に手を振ってみせた。
「ばいばい」
「・・・送ろうか?」
そんな様子を心配して、少年は聞いてみる。しかし、少女は少し迷う素振りを見せてから、首を横に振った。
「うん・・・でも、いいよ、平気。一人で帰れるよ」
「そっか」
このままじゃいけない。そう思ったものの、少年にそれ以上立ち入るだけの勇気も器用さもなかった。歯痒く思いながらも、手を振り返すことしかできない。
「またね、気をつけて」
「うん、じゃあね」
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