答え合わせ

間宮りーな

問一

「死にたいな」

 少年はまたそうつぶやいた。口にするのは何度目だったか、もう自分でもわからない。繰り返した言葉はすっかり口になじみ、深く考えるより前に声に出るようになっていた。

「そうだね」

 少女は抑揚のない口調で返す。その視線は少年ではなく、ベランダに続く窓へと向けられていた。五階の部屋から見える街は近くも遠くもなく、少女の気分を憂鬱にさせるばかり。

 二人はそれ以上に言葉を交わさず、しばらく黙っていた。少年は諦めたような表情のままコーヒーを飲み、少女はぼんやりと窓の外を眺める。少女のために用意されたカフェラテは口をつけられないまま、ただ熱を失っていった。

 やがて、どちらからともなく視線を互いに向ける。

「最近は、本読んでるの?」

 少年の方が先に口を開いた。少女は何やら少し考えるそぶりを見せたものの、結局返したのは一言だけ。

「あんまり」

「そっか」

 そこで一旦間が空き、少女は沈黙を避けようとして付け加えた。

「少し前なら太宰を読んでた」

「『人間失格』、とか?」

 少年は曖昧な記憶をたどり、なんとか話を合わせようとする。

「そう。でも私、『斜陽』の方が好きだな」

「そっか・・・」

「うん」

 話は途切れた。

 初めから、この話題がろくに続かないであろうことは二人ともわかっていた。少年の方では本を読まないので、話せることは少ない。少女もそれを知っているし、自分の趣味についてあれこれ話すような性格でもない。そして何より、彼らは雑談を続けられるほど器用ではなかった。なんとなく口に出しやすい話題を持ち出しては、特に話すことも思いつかず、また掘り下げることもできず、すぐに黙りこくる。そして、沈黙に耐えきれず、また特に話すことのない話題を持ち出す。その繰り返し。

「そっちは何か趣味できた?」

 今度は少女から話しかける。少年はどぎまぎした様子で、話すべきか迷っているように答えた。

「何も。ただ、趣味とは違うけど、一人の時は、いろいろ考えてる・・・と、思う。何を考えてるかは、よく思い出せないけど・・・」

「そうなんだ」

「うん」

 また話が途切れる。部屋には西日が差し込み、少女はそれを避けてテーブルに視線を移す。ほとんど冷めたカフェラテと、あと一口、二口程度のコーヒー。そのほかには、調味料や何かの封筒、広告など、さまざまなものが乗っている。

「死にたいな」

 少年はまたそうつぶやいた。少女は黙って少年の憂鬱な顔を見る。それに後押しされるように、少年は続けた。

「もう疲れたよ。生きていたくない・・・それに、自分が生きてる理由が、わからないよ。本当に、僕は、生きてていいのかな」

 話すうちに少年はだんだんとうつむいていき、最後にはうずくまる姿勢になっていた。そして、肺の中の空気をすっかり吐き出すような調子で言う。

「生きる資格って何だろう」

 少女はじっと少年を見つめる。元から小柄な少年は、体を縮めているおかげで余計に小さく見えた。そんな様子を少女はなんとなく、かわいそうなように、どこか他人事のように思う。そのくせ自分に似ているようにも感じつつ、思いついたことを投げやりな口調で言った。

「そんなのないから、みんな無資格で生きてる。みんなモグリ」

 それを聞いて、少年がそっと顔を上げる。そのすがるような目と目が合い、きまりが悪くなった少女はまたあらぬ方向へ視線を逸らした。

 何度目かの沈黙が訪れる。少年は何か返そうと考えたが頭が働かず、結局何も言えずにテーブルに手を伸ばし、コーヒーの残りを飲み干した。もう少し飲みたいような、もうたくさんなような、曖昧な気分。

 少女は窓の方へ顔を向けたが、眩しさに視線を落とし、見えるのは窓周辺の床ばかり。散らかったリビングの中で、そこだけは少し物が少ない。

「このくらいの高さから落ちたら、たぶん生存率は半分くらい。どこかで見た」

 不意に少女が独り言のように言った。

「ここの最上階くらいの高さなら、たしか確実に死ぬよ」

 少年はその意味を探るように、まばたきしながら聞いていた。

「落ちるとき、余計なことなんて考えないで、人によっては気持ちいいって・・・本当かな」

 話の終わりになって、少女はやっと少年の方に視線を戻す。少し悪戯っぽい、はにかんだ微笑みを浮かべる少女。少年はまだ何度かまばたきを続けてから、どこか悲しげに答えた。

「そうだったらいいのにね」

「うん・・・」

 少年の言葉を聞いた少女は、安心したように短い返事をして、カフェラテに手を伸ばした。すっかり冷めたそれは、口の中に不安定な温度をもたらす。少女はそれを不快なようにも、快いようにも感じていた。

 少年も自分のカップを手に取ったが、もうそれは空になっている。口をつけてから飲み切ったことを思い出した少年は、すぐにカップを戻さず、名残惜しげに手で弄んだ。そして、何気ない調子で少女に話しかける。

「明日、何か予定ある?」

「特にない」

「僕もない・・・」

 本当は、明日も来なよ、と言いたかったのだが、うまく続けられなかった。人と話すときの癖で、少しでも口にするのを躊躇うともう言葉が出てこなくなってしまう。

 もどかしく思う少年をよそに、少女がまた独り言のように言う。

「たまには甘いもの食べようか」

 少年がその目を見つめると、少女は先ほどと同じ悪戯っぽい表情を浮かべ、悪巧みでもするような調子で続けた。

「ほら、二個でセットになってるケーキあるでしょ。あれ分けようよ。一度買いたかったけど、一人で二個は多いから・・・」

「うん。そうしよう」

 少年の方も年相応のあどけなく楽しげな表情で答える。それに勢いづいた少女はうきうきした調子で聞いた。

「君がいいなら明日にでも買ってくる。ショートケーキとチョコレートケーキ、どっちがいい?」

「まだわかんない。明日の気分は、明日にならないと・・・とりあえず、任せる」

「わかった。買ってくる」

「ありがとう」

 二人は顔を合わせ、小さく笑い合った。少年はそのまま少女を見ていたが、少女の方はそっと視線を逸らし、ちょっと照れたらしい口調で言った。

「明日はコーヒーもらうね」

「うん」

 今度は少女の方がうつむいてしまう。その様子を穏やかな表情で眺めていた少年は、やがて何か声をかけようと口を軽く開いた。しかし何も思いつかず、声は出ないまま目がきょろきょろ泳ぐ。少女はそれに気がつかないまま、何かを考えているようないないような、ぼんやりとした状態でいた。

「趣味、一つ思い出した」

 やっと少年が話題を見つける。声を聞いた途端に我に返った少女は、待ち構えていたかのようにさっと少年の方を向いた。

「何?」

「綺麗な画像、ネットで検索して、探すんだ。空とか、水とか、どこか知らない街とか」

「へえ。いいな、私も見てみたい」

 嬉しそうに目を細める少女に、少年はまたちょっと視線を泳がせたが、すぐにぎこちなく微笑んでみせた。

「今、気に入ったの集めてる途中なんだ。もっと増えたら見せるよ」

「うん。楽しみにしてる」

 少年の表情を和らげようと、少女はさらに顔を綻ばせ、そっと小指を立てた手を差し伸べる。

「約束」

「うん、約束」

 答えながら、少年もおずおずと手を差し出し、小指を絡めあう。声は出さずに数回手を揺らし、するりと二人の手は離れた。少年の手はまだ名残惜しげに軽く浮いていたが、少女の手はすぐに彼女の膝の上に落ちた。それを見て、少年も手を引っ込める。

 それからしばらく、二人とも自分の手を見ながら黙っていた。少年は落ち着きなく体をもぞもぞ動かし、少女は感覚を確かめるように、手に軽く力を込めたり緩めたり。戸惑うようなくすぐったいような気分の二人は、お互い似たような表情を浮かべていることを察しながらも、それを確かめないでいた。

 そうしているうち、ふと少年が壁にかかった時計に目をやる。

「もうこんな時間・・・」

 少年の虚ろな言葉に少女も時計を見る。少女の方では何も言わず、冷めたカフェラテのカップに目を落とした。そして惜しむようにゆっくりとまばたきをする。

 また重苦しくなった部屋の空気に押し出されるように、少年がため息混じりの声を出した。

「怖いな」

「私も怖い・・・」

 少女も気弱な返事をし、急かされているようにカフェラテをごくごくと飲み干す。ここへ来てからずっとぼんやりとしていた少女は、初めて深刻な表情を浮かべた。切羽詰まったその様子に同調するように、少年が暗い声で言う。

「時間が止まればいいのに」

「うん。ずっとこのままがいい」

「僕ら、どうなるんだろうね」

 うっすらと、諦めたように微笑む少年。少女は答えず、空になったカップを後悔するように見つめていた。

「帰らなきゃ」

 やがて少女が無感情な声で言う。

「うん、気を付けて」

「うん」

 ふらりと立ち上がった少女は、またカップに目を落としてまばたきをすると、少年に寂しく笑いかけた。

「またね」

「うん。またね」

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